楽譜に書かれていること

指揮者はスコアから何かを読み取り、表現に結びつけます。

勿論器楽演奏家のみなさんも同じモチベーションでしょうが、指揮者はある種の研究職であり、多角的、総合的な観点から楽譜や音楽に対峙しています。

これにあって、各時代背景や人物像、聴衆のトレンドなどを調査し、その深みを独自の音楽性に掛け合わせて芸術を構築していくわけですが、指揮者の経験や着眼点によって、楽譜に書かれていることは色々な表情を表してきます。

よくYouTubeなどで「指揮者聞き比べ」などがありますが、比較して聴いてみるとなるほど指揮者によって同じ楽譜が色々な響きに変わるなぁと感心させられることでしょう。

 

では、「楽譜」とはなんでしょう。

 

作曲家の皆さんが楽譜に「このような音のイメージで演奏してほしい」という思いを認めていると思いますが、その通りの演奏になるかは指揮者や演奏家に委ねられています。

作曲家の中では「出版にて自分の手許より離れていく」という感覚をお持ちの方も多いと思われますが、それでも作曲家の頭にある音楽は現実に存在するわけで、それを実現するには自作自演(指揮)という形が望ましいと思います。

バロック時代やその後の古典時代は、作曲家という職業ではなく音楽家という職業で、音楽の制作から演奏、ステージングに至るまですべて任されていたのが今で言う作曲家です。

勿論演奏にも携わっていますので、作曲〜演奏まで彼の中の音楽であったことは否定できません。

 

古典音楽などを現代の指揮者が再演する意味とは何でしょう。

彼らの音楽は「楽譜」という情報でしか遺されていません。

これをどう紐解いて、どう演奏するかは指揮者と演奏家の協業でしかありえなく、作曲家の頭にある音楽は既に消滅してしまっています。

ですが、これをどう考え、どう解釈して演奏に結びつけるか。ここが主に現代の指揮者が担う点になります。

演奏家は自分の楽譜をどう演奏するか。指揮者はそれをどうディレクションするか。

 

ピリオッドという考え方も確かにあります。

作曲当時の意図にできるだけ沿い、ピリオッド楽器を用いてピリオッド奏法を駆使して。

初演時に生まれた音楽を忠実に再現する再現音楽。

例えば管楽器は現代の高性能な楽器ラインナップはなく、音鳴も成熟しておらずに演奏技術も拙いものであった可能性があります。

そういう「再現性を重視」することも、指揮者の研究職としての役割でしょう。

しかし、現在の技術ではこれを「録音」という技術に置き換えることができます。

録音は音楽の保存という意味では画期的な技術です。

なにせ音源さえ生きていれば半永久的にその瞬間の音楽が残せるのですから。

絵画の利点を音楽の瞬間性を保持したまま取り入れられる技術で、画期的でした。

 

しかし、作曲家はなぜか「録音」に執着しませんでした。

 

自分の頭にある音楽を実現するには、楽譜を書き指揮をし演奏をし、できるだけ忠実に音にする。

そしてそれを録音してしまえば、完璧な自分の表現を遺せるでしょう。

しかし、未だにそれをしない作曲家。

これはなぜでしょう。

 

一つは「録音の限界」が理由でしょう。

録音と言っても、場の空気や温度、聴衆や演奏家の感情まで残せません。

音楽にとって、瞬間芸術にとって、こうした要素は不可欠ですので、生演奏に勝てない部分です。

 

もう一つの大きな理由は「楽譜の抽象性」でしょう。

楽譜は抽象的に音楽を記録する方法です。

楽譜や録音以外では古くからケチャや伝承で伝えられる音楽もあります。

これらに一致することは「変化」です。

「感性と感性のコンタクト」といっても良いでしょう。

演奏家や指揮者が抽象的な楽譜という媒体を読み解き、その解釈の差からまた違った芸術が誕生する。

これが素晴らしい進化を体現できる方法だと気づいているのだと思います。

発想記号(「アレグロ」や「レント」など)も、言語学的に時代背景で感じ方は変わってきますし、調律や音律などでもその雰囲気は変わってきます。

そうした「解釈の差」が、作曲家が頭にしていた音楽よりもまた変わった形で再現される。この魅力があるので「楽譜」が今でも活用され、演奏されるのでしょう。

 

楽譜に書かれていることの大前提は「進化させてください」ではないかと思うのです。

この前提条件を理解しなければ、再現芸術として価値認識されないように感じます。

 

そして、「再現芸術」には「録音」と「再演奏」の2種類が存在し、互いに得意分野(狙い点)が違うことを留意しなければならないと思います。

多角性と専門性の葛藤

クラシック界だけではなく、最近若手の作曲家、エンジニアの方々の頑張りというか、感性というか、本当に素晴らしいと思う。

 

あるレコード会社のディレクターをやっていた友人が話していたが、「J-POPは90年代で終わっている。最近目新しい楽曲を耳にすることはないし、昔の良い曲を使いまわしているだけだ。歌手にしてもEQにせよ歌い方にせよ、単にトレンドを追いかけて聞き手を麻痺させているだけだ。」というような話をしていた。

 

しかし、10年代に突入し、ソフトウェアも以前の高価な音源ではなく一般的に手の届くハイクオリティなソフトウェア音源も簡単に手に入るようになったおかげで、今まで眠っていた人がどんどん掘り起こされて、インターネット経由で発信出来ている。

その分多種多様な音楽を簡単に聞くことが出来るようになり、一極化の方向ではなく多極化の方向にシフトしてきている。

かくいう自分も「多極化の中にいるコアな存在」でありたいと思っているんだけど、その価値観は多分音楽に留まらない。

ITエンジニアもそうだが、「専門分野がとても強い」ではこれだけ各分野の多極化が進んでいる現代では商業カルテルのような「申し合わせ」がないと食べていけない。(それさえもあと数十年のうちに淘汰されてしまうかもしれない)

先日、「作曲家は指揮を振るな」のような書き込みをして炎上(笑)したが、専門性の付加価値としてのそれはある種の「コアな存在」になりえるのかもしれない。

 

ただ、指揮にも専門性が存在するので、ちゃんと指揮ができる最低限の技術はマスターして欲しいと思う。

芸術性を追求する(飢え死にしようとも)ベクトル上では、ベクトルの推進性を重要視する方向に流れがちだが、音楽表現というベクトル(そんなものがあるのかは分からないが)から見るに、指揮者だろうが作曲家だろうが演奏家だろうがエンジニアだろうが聴衆だろうが、前提条件は違えど同じ方向または同じ空間世界を目指しているという点では、人間性をも含めて多角的に追求すべきなのかもしれない。

 

でも、、、

 

それじゃアイデンティティはなに?となる。

 

自分でも時々本当に迷う。

ということで、motionを買ってみました。(笑)

何故良い音楽を聴くことが演奏技術を向上させるのか。(「絶対音感」分析からの考察)
先日、私のFacebookのTimelineに流れてきた記事。
とても共感を得ました。

たくき よしみつ(鐸木能光)さんのサイト
「タヌパックスタジオ本館」
のコンテンツにある
あなたの音感は何型か? 〜『絶対音感』の誤解

こちらのコンテンツです。
※事前にたくき氏には本執筆の了解と出典、引用をご許可いただいております。
※引用コンテンツにある内容は記載を省きます。少々読み応えがある内容ですが、是非一読されると良いと思います。
※執筆では「絶対音感」とは何かというテーマから始まり、その有効性や分類を論理的に解説されています。

さて、
A=440Hz
という定義があります。
この定義はローマの定義ですが、当時の各地教会では自らの権威を示すために様々な調律がなされていました。
そのため、オルガニストや合唱隊が各地を移動する際音程感をその地域の調律に合わせる必要があるという困難な状況があり、ローマが調律の共通化を試みました。
しかし、やはり時間が経つと様々な調律がまた発生し、この「調律音の統一」は遅々として進みませんでした。
これは音楽交流が盛んになる近代まで続きました。

現在のピアノの基本調律である「平均律」自体は結構前に存在しました。(5世紀あたりから考え方自体はありました)
これは鍵盤楽器が盛んに演奏される時代に、楽曲ごとに調律を施す必要性を回避するために考案された、いわば「全調性対応の調律」として重宝されました。
転調を自由に行うために、この調律法は非常に役に立ちました。
全ての調性で少しずつずれ感があるため、極端なウルフ(非常に共鳴しない音)を防ぐ事が出来ました。

その後ピタゴラス、中全、キリンベルガーなど有名な調律法が出てきます(調律や音律の話になると長くなるのでここでは割愛します)が、完全な「全調性での純正律」は鍵盤楽器では理論上どうしても実現しませんでした。(そもそも純正律が正解だとは限りませんが。。。)
今の電子楽器の世界でも、(私は感じてしまうのですが)純正のHarmony(特に三度)はあまり実現できていないと認識しています。

例えば、電子オルガン楽器である、ヤマハの「エレクトーン」では、音程の補正はあまり正確でなく、音色(音源)の多彩さなどがウリです。
同メーカーの「ハーモニーディレクター」でさえも、三度はどうしても20秒に1回うねります。(この「20秒に1回」といううねりが私には耐え難いのです)
最近の技術力で工夫はとてもされていますが、どうしても純正の響きは実現できていないと感じます。

さて、この私の感覚は、たくき氏によるところの「移動ド型音感」であることは、たくき氏のコンテンツを読み進めることで容易に理解出来ました。
たくき氏も仰られているように、一般的な絶対音感と称される、「音叉型音感」は私にはあまりありません。
しかし、基準音を与えてもらえば、楽譜を音に変換する能力はあるようです。(スコアを読み進めることでスコア上の音は頭の中で鳴らすことが可能です)
ですので、「固定ド型音感」も備わっている可能性があります。

音楽を表現するにあたり、どのような音感が役に立つかはその人の活動如何だと思います。
私のように指揮者をしている人間は、音叉型音感、しかもその記憶が平均律だと、オーケストラで楽に豊かな響きを聞き分けることは難しいでしょう。
何故なら、単楽器の音色でさえ、その音色を構成する音は響音の重なりです。
器楽音などの響きの中には響音である倍音が構成され、その微妙な重なり方が音色を構成します。
ですので、音叉型音感で平均律音叉を持ってしまっていると、音の美しさを感じることは皆無でしょう。
何故なら、倍音の構成音は平均律ではありません。(純正律でもありませんが)
倍音の共鳴をどのように捉えるか。鳴っている音の数をどれだけ聞き分けられるかで、豊かな音色をイメージし、オーケストレーションすことが出来ると思います。

指揮者がピアノを弾けることは悪いことではないと思いますが、音叉型絶対音感を持っていることは絶対に避けるべきです。
まぁ、a=440Hzの音叉を持ってしまうとピリオド音楽は出来ないでしょう。
ピアノも、演奏技術が高いことより調律技術が高いほうが良いでしょう。
(脱線しますが、調律師の方も指定の調律を実施できる方は少ない気がします)
残念ながら私はピアノの調律はまだ出来ませんが、それでもあまり問題と思っていません。
何故なら、基準音さえ貰えば、その音程での音律や和声は頭の中で鳴るからです。
たくき氏の分析による絶対音感分類はこの点を説明する上で非常に有効と感じました。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

さて、前出のたくき氏の言葉を引用すると、

教条主義的で無味乾燥なピアノ教室に長いこと通わせて、形の上ではピアノが弾けるようになったという子供よりも、楽器を何も習わせなくても、幼い頃からいろいろなジャンルの名曲を数多く聴いて育った子供のほうが、はるかに音楽的な素養は豊かになるだろう。そこで培われた「生きた音感」「自由な相対音感」こそ、成長してからの真の宝物になるはずだ。

これは私も非常に同感だと感じました。
音感とは、必要とする生きた音感を音楽表現の中で培うべきものであると思うのです。
楽団で音程が悪い方はプロ・アマ問わずにいらっしゃいます。
その音程感で演奏を実施しても、響音による「天国の音楽」(故 玉木宏樹氏)は実現できません。
そういう音程感での演奏が目の前に現れた際、「音程が高い」「音程が低い」という表現での奏者への指摘は極力しないようにしています。
「芯の音程」(チューナーで指し示される音程/一番大きな音程)を変更しても、倍音が変化しなければ響きはあまり良くなりません。
芯の音の周波数を変更するだけでは充分ではありません。
なので、出来るだけ声、歌(音色がある音/数値ではなく音そのもの)で、音程感の矯正を御願いします。
高い低いの音程修正は、楽器の演奏力が高ければ高いほど簡単に修正できますが、音楽は進行するものですので、考えている音程を修正しない限り同じ音程の間違いが発生します。

そうした「音程(すなわち音色)への感受性」を育てるのは、そうした「良い音程感」を経験することが唯一の方法ではないかと思います。
それも、出来るだけ生音で聴くことが重要です。

スピーカーの音は、特性周波数にどうしても隔たりがあります。
音の感受性を養うためには、非常に微細な周波数を感じることをしなければなりません。
(オーディオに詳しい方がよく「このスピーカーとこのアンプとこのシールドで組み合わせると豊かな音になる」などと言いますが、それほど「音色の再現」とは難しいものです。)
人間の耳の構造は非常に有能で、マイクが拾う音、スピーカーが出す音以上の細かい音を感じます。
耳に何らかの障害を持っている方でなければ、この聴力は個体差はあれ、マイクやスピーカーのそれとは比較になりません。
この聴力を鍛える方法論として、「絶対音感」というものが存在するのであれば、それは「音叉を頭の中に持つ」ことではないと思います。

人間の耳は、いわばアンテナです。
ここには様々な電波(音)が受信されています。
これをモジュレート(モデリング)し、理解するのがチューナー(脳)です。
よって、耳に聞こえている音信号を脳で理解し、その音を感じています。
ですので、俗にいう「音感」とは
・耳による音の受信能力
・脳による音の分析能力
となると思います。

音楽家は、この他に、再生するアンプとスピーカーの機能として、また良い再生能力を担保する補正能力として、
○脳で良い音をイメージする能力
○イメージした音を表現する能力
○表現した音を評価し修正する能力
が必要だと思います。

そう、インプットに対しアウトプットがある事が重要です。
そして、人間の表現する音楽は、「脳」という高機能のシステムを用いて、他者の追従を許さないほどの繊細な再生能力、想像(創造)能力を発揮するものであると思います。

(日本の一般的な)音楽(器楽・声楽)教育では、上記「イメージした音を表現する能力」をとてもよく教えてくれます。
ですが、芸術は「脳で良い音をイメージする能力」が必要不可欠だと思います。いや、とても重要な部分です。
そのためには「脳による音の分析能力」は必須です。
この分析を間違えると、良い音楽に結びつきません。

「脳で良い音をイメージする能力」を育むために、もっともっと良い音を生で聞き、感じることが大切だと思います。
理論はその裏付けでしかありませんので、本来は必要ないのかなとも思います。
但し、人間には限りある生命がありますので、出来るだけ時間を短縮するために理論は有効ではないかと思います。
良い音楽を多くの人が表現できること、その地道な活動が、音楽界を活性化させて素晴らしい文化に育つと確信しています。

理論がなかった時代のほうが、もしかしたらよい音楽があふれていたのかもしれませんね。。。

さぁ、そして大きな疑問えす。
「良い音楽」とは一体何なのでしょうか。
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