Camille Saint=Saens「Samson et Dalila」よりBacchanale
久しぶりに徒然なるままに自分の楽曲解釈を書いてみた。

Camille Saint=Saensが書いた「Samson et Dalila」は当初オラトリオとして書き始められたが書き終えてみればオペラの形式に落ち着いている。
楽曲のテーマは旧約聖書「士師記」第13章から第16章のサムソンの物語に基づくものであり、標題音楽といえる。
「士師」とは英雄のことで、ペリシテ人(タゴン神を信仰)の支配下にあったヘブライ人(ユダヤ教を信仰)の英雄としてSamsonは登場する。
神に与えられた怪力によりヘブライ人を守ることを使命としたSamsonだが、女性に脆くその弱点がヘブライ人を裏切る形になってしまう。
惚れたペリシテ人女Dalilaにより色香の誘惑に負け、自分の弱点である「髪の毛の秘密」をDalilaに暴露、これがペリシテ人に伝わり神の力を削がれてしまう。
囚われの身となり目を潰され石臼を轢かされるSamson、恐れていた「士師」を捕らえ宴を繰り広げるペリシテ人。
その宴の前半が第3幕第2場「Bacchanale」。タゴン神は旧約聖書では異端。位置づけとしては悪魔。地獄での刑罰はパン焼き。容姿は上半身が人で下半身が魚の姿で描かれる海の民。対するユダヤ教エホバは絶対神。ヘブライ人には248の義務と365の禁止が課せられている。取り扱いは両端でありながら物語の当初はペリシテ人にヘブライ人は支配されている。
旧約聖書は「教え」なので必ずキリスト教(の流れ)が正しいと教えますが、それにしてもタゴン教の神は「ポニョ」みたいな感じか。随分な書かれ方をされているようである。

というわけでCamille Saint=Saens「Samson et Dalila」よりBacchanaleに関して少し書いてみる。

1小節目にある弦pizzから始まるobカデンツはその小節を支配しホルンのoctを従える。2小節目より楽曲が時間軸に則り進む形だが、冒頭カデンツは継続している(属七)。その後7小節目のDmにてトニカとなり楽曲が開始されることになる。メロディの冒頭は弱起だが、あくまでカデンツの最終形でありDmトニカを以って解決となる点がアンニュイな雰囲気を醸し出している。
第一主題は常に弱起にも拘らず、和声進行では強拍での解決となっている部分を丁寧に使うことでこの楽曲の二面性をきっちり表現できると思われる。
その後第一主題の展開が行われ、ある種十二音技法のような逆行形や和声的鏡面構造を持っており当時の革新的な技法を多分に採用している。
第二主題は冒頭カデンツの主題でありエキゾチックなヘブライ調の旋律となる。この旋律は増二度の進行が特徴で、5音音律になぞることができる。
増2度での分離性が楽曲の二面性を強調しており、表現の自由度と制約感の両面を表現できるものである。
展開部に近い第一主題の再来で楽曲は興奮に向かっていくが他方突然の弛緩、その後の興奮をオーケストレーションを多彩に用いて表現するところはまさに天才サン=サーンスの成せる業か。
中間部のDoppelは「興奮の先に弛緩がある」ものを表現している部分と解釈でき、退廃的刹那的ではなく、享楽的楽観的普遍的方向のベクトルに進んでいるよう捉えることが出来る。
Doppel部は当初トニカと属七が2小節ごと(冒頭の進行速度で解すると8小節ごと)に交互に出現し、それをクラリネットが崩し始めて低弦部で増長させ別の世界に突入する構造。その全体をドミナンスであるG音がCorにて支配し、導く様相は将に「お導き」であるように感じる。Doppel部は舞台転換のようにすっと静寂化し、その後現実の世界に引き摺り出されるが如く速度を回復し、しかしDoppel部の美しい旋律が尾を引く中で熱狂にベクトルは舵を取る。
その中でD-MollトニカであるD音がSubDominanceに当たるG音とDominanceに当たるA音を従えて常に完全音程で響き通す部分と変革を求めて3度の調性進行を貫く部分とが交互に出現し、時折見せるDユニゾンが物語の結末を示唆するある種の韻になっている。
第一主題の変奏が楽曲の熱をどんどん高め、執拗にドミナンスモーションを繰り返し最大の盛り上がりの中に第二主題へと突入する。
クライマックスはティンパニのリズムによる第二主題のCorによる強奏と、それを準えての全体強奏にてコーダに向かい、コーダは本来DmをDMに変更するピカルディ処理を施し、このピカルディ終止的構造も何度も繰り返され、これが単純な終止構造ではなく楽曲が新しい世界に向かう示唆であることは充分に理解できると思う。

ヘブライ調のメロディは非常にエキゾチックな雰囲気を醸し出し、しかし第一主題に関しては二重性を追求した現代的な構造であり、楽曲全体に「中途半端さ」がふんだんに盛り込まれている。
これはヘブライ人とペリシテ人の宗教的側面と、男性と女性の性的側面、更に天国と地獄の背反性、苦悩と享楽、服従と開放など対義に位置するものの近似性であるように思われる。
現に短旋律と長旋律では半音、より正確には1/3音の音律で性格が二分する音律の構造やその底辺で支配しているパワーコードの存在が「全ての事象は互いに背反し近似する」という思想を表現しているように思われる。
また時代背景からすると、フランス印象派主義がドビュッシー「牧神の午後への前奏曲」でマラルメをもって賞賛するまでの形に開花する、その序章と言う位置付けを感じることが出来る程に深い主張であると感じることが出来る。

調性のとり方に着眼すると、D-mollからC-dur、そしてD-mollよりD-durという進行は実にエキセントリックであり官能的である反面、支配的な構造的な一面もあり、古典的な響きの中に現代技法的様相もあり、これまた二面性(否多面性)を表現している作曲家を裏付けるものではないかと思う。

カスタネットの使い方、コルレーニョやスピッカートなどの弦の使い方、Corを主調で書き、Trpを近親調で書き、3管編成といい、オーケストレーションといい、現代でも本当に興味深い楽曲ではないだろうかと思う。
Adagio for Strings/Samuel Barber

Samuel Barber(1910/3/9〜1081/1/23)はアメリカの作曲家。20世紀生まれのとても若い作曲家なのだが、古典的な作曲を手がける新ロマン主義音楽の作曲家。彼の代表作とされるAdagio for Stringsは、先に作曲された弦楽四重奏曲第1番の第2楽章より編曲されたものである。
作曲時には彼はイタリア留学中であり、詳しくは不勉強だが祖国に居る2人の子供達へ送ったものだとスコアには明記されている。

この曲をはじめて聴いたのは昭和天皇崩御のとき。NHK交響楽団が追悼演奏会で演奏していた。
当時高校2年生、学生指揮者として矢代秋雄作曲交響曲第3楽章を吹奏楽で指揮したのが公の場での最初の指揮であったのは、この記念演奏会の1ヶ月余前だった。
矢代秋雄の交響曲も非常に難解な曲で、特に第4楽章は吹奏楽界では有名であるのだが第3楽章は比較的無名だったもので、弦楽の濃厚な響きをLentoで綴り、その根底に2楽章の「テンヤテンヤテンテンヤテンヤ」というお囃子のリズムを配している、独特の雰囲気を持つ曲。
矢代はBarberより後に生まれ、そしてBarberより早く他界した作曲家で、かれは留学先をパリに選んでいた。黛敏郎などと一緒にパリ国立高等音楽院で学んだ仲だ。
Barberが留学したのは1936年、矢代はそのとき7歳なので同時期ではなかったのだが、何か近い感覚があったのかもしれない。
矢代自体は当時Cesar Franckに心酔していた(Cesar Franckの交響曲での手法「循環主題」が使われている)のだが、私の耳に入ってきたAdagio for Stringsはなぜか矢代の第3楽章に類似点を感じていた。
その後この曲に久しく触れていなかったのだが、ふとした折に友人より「Adagio for Stringsをやってみなさい」と薦められ、俄に記憶を蘇らせた。

話をBarberに戻すと、彼は当時流行であった現代風の作風というより古典的な作風を好んでいた。当時のアメリカでの西洋音楽のトレンドは実験的なものが多かった。Barberはそのトレンドにあまり傾倒せずに伝統的な楽式や和声法を用いた作曲が多く、とはいえ無調や12音を全く扱わなかったわけではない。
彼の親類に当時名声を博したオペラ歌手が居たりした影響か、彼は多くの管弦楽伴奏の歌曲を残している。ちなみにAdagio for Stringsにラテン語の典礼文をつけた「Agnus Dei」という歌曲編曲も行っている。

弦楽5部で作曲されているこの曲は、4/2という拍子で始まり、小節全音が二全音符となるなど一見挑戦的な記譜になっているが、その奥底に彼の持つAdagioの流れが感じ取れる。冒頭は各楽器の中心音域付近でテーマが流れていくが、変奏されながら転調を繰り返し、その音域は高音域に達していく。クライマックスの強奏部ではCB以外の全ての楽器がト音記号で記され、当然音がある全ての楽器がハイポジションでの演奏になっている。楽曲にフェルマータやG.P.などの休止はなく、休符による時間進行を義務付けている。その際時間軸の揺らぎはAdagio内の許可があり、自由である。最強奏部の後、休符での空白時間を得て弱音でしかも低音の再変奏テーマが流れた後に回帰部になる。回帰部ではSordinoがad libitumとされているが、殆どの演奏ではCon Sordinoで演奏される。
そのまま静寂でありそれでいて強い意志が感じられるまま、トニカを得ずに終止する。

ジョン・F・ケネディの葬儀の時に演奏されてから比較的追悼というイメージが伴っているこの曲だが、作曲家本人は「この曲は葬式の曲じゃない」と抗議していたとのこと。確かに愛する子に送る楽曲が葬儀の曲とは、作った側は少々辛い認識であろう。

Symphonie Nr. 1 D-dur "Der Titan"/Gustav Mahler
この曲は、国内でも海外でも特に良く演奏される曲である。私もマーラーを感じるにあたり、必ずこの「第一番」に戻る。
実は、20代の頃は意識的にマーラーという作曲家の音楽を聴かなかった。
皆「マーラー」「マーラー」というので、ミーハーな雰囲気が多々あったためだ。
私がマーラーに出逢ったのは、かの有名な「サントリー烏龍茶」のCMでの「大地の歌」である。
この曲を良く聴いてみたいと感じ、CDを購入したのがきっかけだ。
マスメディアなど、大嫌いだと豪語していた私であったが、密かに影響は受けるのだろう。その出逢いが現在のマーラー感を形成したのであるから不思議である。

マーラーは指揮者として賛否両論の先鋭的活動を精力的に行ってきている。そのスピリッツは実に彼の作品に如実に伺える。
彼自身が執筆した楽曲は、実に数々の改稿が為される。彼の中に「完成」という文字は存在し得なかったのであろう。
それだけ、彼の人生において「苦悩」「迷い」「失意」「挫折」が多かったように思う。人間の本質を彼は素直に表現したという点では、実はとても健やかに生き抜いたのかも知れない。

この楽曲は最初交響詩的に書かれ、2部構成5楽章で作曲され、初演された。
マーラー自身の手で初演された演奏は不評に終わり、その後マーラーが手がける演奏の度に改稿を加えている。(ちなみに初版は消滅している)
現在有名且つよく演奏される阪は、マーラー協会が策定した全曲集に依るものである。
有名な版に、第二版(ワイマール稿/2部5楽章交響詩形式)、第3版(ベルリン稿/4楽章交響曲形式)、マーラー協会版(ユニヴァーサル社改稿/現在の有名な形式)などがあるが、その内容変化や細かい改版で実際に存在する多くの稿が入り乱れている事もしばしば発生し、混乱の元になっているようである。

第一楽章(Langsam, Schleppend, wie ein Naturlaut - Im Anfang sehr gemachlich)では、微弱音の弦楽から荘厳に始まる音楽は、マーラーの中にある極端な対比的精神構造が如実に伺える印象的な部分である。「春、そして終わることなく」と、第二版であるワイマール稿で付けられた楽章副題とは、私は少々異質のものを感じてならない。それは、和声構造とも云え、対位法的技巧とも云え、しかし、ただ「雰囲気」とも云える。具体的な論理解説は諸氏にお任せするとして、私の感じるこの楽章のイメージは、どうしても「生死のテーマ」と捉えてしまう。
マーラー自身、「この楽曲の事を聴衆は理解していない」と初演後に言明しているように、マーラー自身が初めて交響曲として執筆したこの1番で、若しくはその後彼が手がける全ての楽曲の根幹になるテーマを縫い込んでいたのかも知れない。
第一楽章で提示される第1主題は4度の下降音型である。私が特に思うのは、この「下降音型」という特殊な呈示が何を意図するのかが、この楽曲の最大にして難解な疑問である。ちなみにこの音型は全曲を通しての命題として扱われる。
この楽章は自由に表現されたソナタ形式として理解されているが、マーラー自身はやはり当初「型にはめたくなかった」ために交響詩の形式で初演しているのではないだろうか。
そうした意図からも、今後のマーラーの根幹であるように思えてやまない。

第二楽章(Kraftig bewegt, doch nicht zu schnell)では、荘厳な3拍子scherzoが楽章全体を通して奏される。低音弦の重厚な響きの中に高音弦がアカデミックなテーマを奏する主題から展開し、楽章を通して明るく展開しているように思われる。が、ここでも私はどうしても「暗の予告」として感じてしまうのは何故だろうか。
私が思うに、最後の和声がそう感じさせるのではないかと思う。初版にて交響詩として書かれた流れとして、実は現第3楽章の予言的和声であったと推測されるが、当然各楽章を独立させるとなれば、これだけ稿を重ねたマーラーは、きっとこの和声にも着眼したに違いない。そう考えると、ここでもマーラーの「飽くなき挑戦」が感じられる。実際第1楽章における「ソナタ形式の前衛的展開」もこの類の感性と捉えることも出来る。そうなると、交響詩としていた最後の版である第2版での大段落である第一部の括りとして、次に登場する第3楽章への経過として見る考え方もあるだろう。
何れにせよ、まるでBeetohvenへの回帰を彷彿とさせるこのThemeだが、実はマーラーの古典への挑戦が伺えると感じるのは私だけであろうか。
なお、第2版ではこの楽章は第二部第3楽章「順風に帆を上げて」とされる。ちなみに第2版第一部第2楽章「花の章」は第3版にて削除されている。

第三楽章(Feierlich und gemessen, ohne zu schleppen)では、童謡「フレール・ジャック」と『さすらう若人の歌』第4曲「彼女の青い眼が」が用いられている。全体的なイメージは、第二版で命題されたように「座礁、カロ風の葬送行進曲」そのものであり、第一部「青春の日々から、若さ、結実、苦悩のことなど」を受けた第二部「人間喜劇」の冒頭に持ってきたものである。
本曲の理解を進める上で、第二版で用いられた部構成を楽曲の大段落とする考え方が主流であるが、私は敢えてその分析方法は間違っているのではないかと感じている。
それを裏付けるものとして、初版では当初部の切れ目は第二楽章と第三楽章の間にあった。それが第二版では第三楽章と第四楽章の間に位置し、マーラー協会稿で云うところの第二楽章は、実は部をまたいでいるのである。
また、先に論じた第二楽章の終和声の問題、また本楽章が第四楽章にattacaで引き継がれる構成などを鑑みるに、やはり本交響曲は元の「一つの交響詩」それも、楽章を経て結論に至る形式である事は、否めない事実のように感じてならない。
更に、この楽曲が「交響曲第一番」として演奏される前に彼の交響曲第二番を初演している経緯も含め、実は彼の交響曲は「全て繋がった一連の音楽群である」ように感じる。

第四楽章(Sturmisch bewegt)では、第三楽章の最弱音からattacaで引き継がれた第一音目はPairCymbalの強音。このcymbalを聞けば聞くほど、今までの楽章を全て肯定し、その上でその内なる感情を深層に打ち込んだように思われる。
実は、この楽章ではこの時点でのマーラーの回答を表現し、結論を論じていると思うのだが、本当の本当は、此はマーラーの自身へのFakeであったのかと思う。
コーダでのホルンの立奏指示に至っては、マーラーの精一杯の見栄であり、その後に訪れる本格的な人生の苦悩に恐怖し、まるで小動物が威嚇の鰓を広げるような、そんな悲しき感情に満たされる。
しかしながら、当時の管弦楽法に見られない、四管編成(第三版で三管編成から拡充)での壮大な楽曲は、マーラー評価として絶大なる功績を残した作品である。
マーラー自身の遥か深い苦悩を表現した最初の楽曲として、彼の自伝となるカンバスを形成した重要な楽曲であったことに異存は全くない。

さて、上記で論じているように、マーラーは自らの苦悩を真正面から捉え、正直に怯えてそれを究極の「素直」で表現しているように感じる部分が他にもある。
そう、「巨人」という副題である。
彼自身が友人に宛てた手紙の中で、「この副題は誤解を招くおそれがある。」と書いているとおり、彼の予言通り彼の本質を見誤る傾向があるように思われる。
彼は自らの苦悩に「打ち勝ちたく」、彼の苦悩を表現したこの楽曲を強く、強くしたかった。たまたま彼が目にしていた書物で「巨人」という文字があり、副題を付ける機会にそうした「目に入ってきた強そうなもの」をつい付けてしまったのではないだろうか。


私は今までこの「マーラー」を論じることは控えてきた。何故なら私ごときがマーラーを論ずる前に、より優れた方が深く論じていらっしゃるからだ。
では、その論を全く無視し、素直に私の思う「最小限の情報のみでの素直な解釈」を記載することは、私のマーラーに対する敬意であり、彼の精神である「飽くなき苦悩への挑戦」を学ぶ方法ではないかと考え、執筆した。
諸説と全く異なるかも知れないし、勿論私と近い解釈をされている氏もいらっしゃるかも知れない。しかしながら、そうした論評を私は一切廃して自らの感性のみで執筆した事をご理解頂きたい。
Ludwig van Beethoven/交響曲第9番 ニ短調 op.125 〜Vol.2〜 二楽章
ベートーベンが作曲した交響曲の中で、この楽章が私は一番好きである。
勿論もっと感動する曲は多いが、好みで言えばこのScherzoが私の生命の躍動リズムに最適なのだ。
3/8で表現される形式の前半部・後半部。ほぼ同じ音型が繰り返し使用されているにも拘わらず、その普遍的躍動は衰えずにコーダまで引き継がれる。
冒頭の「テーマによるファンファーレ」的要素の8小節。これで総ては決まる。
その後に続く各楽器の展開よりTuttiで最初の動機提示になる。
この動機提示部までの間、全身の血液が沸騰するが如く私の精神肉体の躍動が内なる深層より沸き上がる。
テーマが提示されてからの展開は将にベートーベン。取っつきは「諄い音楽」などと言われてしまうほどしつこく同じテーマを展開し続ける。
その流れは一楽章からの流れであり、五番一楽章を彷彿とさせる(五番一楽章は全体の約2/3以上が例の音型である)動機の展開。
その後木管が奏する第二主題とも言うべき動機が最初の弦楽と絡み合い、中間部に雪崩れ込む。
中間部は4/4になり、ホルンやVcなどの中音域でのthemeが心地よく響く。朗々とした流れはまるでscherzoをクールダウンしているように。
中間部の4/4があるおかげで後半部のscherzoが更に激しさを増して、冒頭と同じ構成で突き進み、codaは中間部を再度奏でると思いきや、刹那終演してしまう。

この第九番では楽章毎にテーマがあり、四楽章でシラーの歌が入るまでは「各楽章の根底にあるthemeの否定」と解釈する。
ベートーベンはこの歓喜の歌を用いることにより、自らの人生での結論を表現したかったのだろうと思われる。
だからこそ、他の楽曲で使用予定であった歓喜の歌をわざわざ完成1ヶ月余前の段階で差し替えるまでしたのだろう。
完成を見たベートーベンの交響曲はこの第九番が最後の作曲になったが、実は彼は十番もスケッチしていたことは有名な話である。
彼の作曲ノートによると、実は九番が完成する前に十番のスケッチは描き始めている。彼の作曲への直向きな姿勢は現代の我々を叱咤激励しているように感じる。

その中で、ある種否定された「二楽章」だが、実はベートーベンも「その否定が無ければ歓喜には辿り着かないのだ」と言っているように、私は感じてやまない。
Ludwig van Beethoven/交響曲第9番 ニ短調 op.125
Johann Christoph Friedrich von Schiller(ドイツの詩人、歴史学者、劇作家、思想家、1759/11/10-1805/5/9)の「An die Freude1785」(「歓喜に寄す」/シラーの詩作品)に曲を付けた第4楽章であまりにも有名である。
交響曲に詩を付けたのはペーター・フォン・ヴィンターの《戦争交響曲 Schlacht-Symphonie》がこの第9番以前に作曲されているが、楽曲の1楽章全体に多大なる影響を得て作曲されたのは第9番が初めてである。
イギリスのフィルハーモニア協会からの依頼を受けて創作され、初演は1824-05-07 @ ウィーン:ケルントナートーア劇場と記録にある。
このときBeetohvenは既に聾者であり(ただベトルジヒ・スメタナのように完全に音が聞き取れなかったのではないようである)、それまでの古典的作曲技法(宮廷音楽の其れ)を大きく打ち砕く斬新な技巧を示し、「作曲が技術である」事を世に知らしめた作曲家でもある。
臨終間際、Beetohvenは「Plaudite, amici, comedia finita est.(諸君、喝采を、喜劇(お芝居)は終わった)」と声を発し、すさまじい雷鳴とともに稲妻が閃いた時、彼は右手の拳を振り上げ厳しい挑戦的な顔をし、遥か高みを数秒間にらみつけた後、その目を永遠に閉じたのだという伝説も耳にした事のある読者も多いと思われる。

さて、この第9番ニ短調op.125であるが、日本ではシラーの「歓喜の詩」として年末の恒例として慣れ親しまれているが、諸外国では「第9」を年末に演奏する慣習はない。そういう意味では日本での伝統文化なのだろう。

私が好きな楽章は2楽章である。
あの生命力漲るテンポと、中間部の広大なダブルリードのテーマが対照的で、その壮大な大宇宙を彷彿とさせる楽章は、本当に1824年に作曲された音楽なのかと思わざるを得ない。
また、Beetohven楽風とも云うべき「諄い音楽」も、この第9番は其れを感じる暇がない程劇的且つ壮大なテーマに覆われている。


「歓喜」


この肯定こそが、晩年のBeetohvenに具わったテーマだったように感じる。
自らの余命がわずかだと感じ、第10番の推敲で用いようとしていたシラーの詩。これを第9番完成直前に差し替え、異例の楽章構成にした意図は、自らの存命中に訴えたかった一番大きな楽想だったのであろう。
本来第4楽章には、のちに弦楽四重奏曲第15番の第5楽章として使われる旋律をあてて純器楽の交響曲とする予定であり、声楽は別に作曲を予定していた《ドイツ交響曲》というタイトルを予定していた交響曲に使用する予定だった。其れを差し替えてまでこの第9番交響曲に用いたBeetohvenは、どこまでこの曲に思い入れを強くしていたのであろう。




この楽曲は、筆者も非常に強い思い入れがあるので、回を分けて執筆していく。
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