これからの音楽初期教育に必要なこと(「耳」を育てる)

久々のエントリですので、長年温めてきたテーマに取り組んでみようかと。

音楽の初期教育で、多分昔から難易度が高く、なかなか良いメソッドが見いだせない領域です。

今回のテーマは「耳を育てる」教育法に関して、金澤の仮設から考察してみたいと思います。

 

「耳を育てる」すなわち、良い音楽を聞き取れる能力となります。

楽器演奏技術で、この「聴く」という事象はなかなか良いメソッドがありませんでした。

私も長年この分野に悩まされ、どうしたら初期教育の段階で効果的に耳を育てることができるのかに悩み苦労しました。

 

そもそも「耳を育てる」というのはどのようなことなのでしょう。

 

「音楽を演奏する」という位置づけから考えるに、「良い音を聞き分ける」「周囲の音を聞き分ける」という感じで考えてしまいがちです。

しかし耳は音を認知する器官。耳は音の振動をキャッチして脳に伝達する器官です。

この能力は狭義では俗に言う「聴力検査」などで使われる周波数をキャッチする能力なのかなと思います。

単音を聞き分け、すなわち聴音し、音程を認知する。場合によってはそれを絶対音として音程に変換し言い当てる能力。

でも、これができても「音楽表現」にはあまり結びつきません。

いわば「音のクイズが得意な人」なのです。

では、もう少し広義に考えてみましょう。

 

音を認知する先には「音を表現する」という目的につながっています。

認知すべき音は「音色」であり、実現を目指す「表現」に繋がります。

声帯模写の方を例にしましょう。

彼らは「特徴」を把握します。

それが音程なのか、音色(倍音構成)なのか、抑揚なのか、子音なのか、タイミングなのか。

様々な特徴を認知し、そしてそれを実現化するために自分がどう行動すればよいのかを考えます。

そう、音程だけではないのです。

 

音色というのは倍音構成です。オシロスコープで表現される、「どの周波数が同時に鳴っていてどの周波数が強いか」で確認できます。

そう、「面」なのです。

単音を把握できるだけでは不十分なのです。

では、普段の生活ではどのように認知しているのでしょうか。

 

例えば親、兄弟、友達、先生などの声を例に取りましょう。

一回聞いただけで「この人の声だ」と認知できる人も多いかと思います。

これは「耳が育っている」と定義してみます。

声も音楽同様各要素で構成されています。

その人の特徴的な抑揚や発音の癖、倍音構成(可愛らしい声やダンディな声などは倍音がそう聞こえさせているはずです)、間合いなど。

なんとなくの雰囲気の中で、各要素を記憶しています。

これは、平時にその声を聞いていることが条件です。

例えばオレオレ詐欺が流行している背景では、息子や孫の声をしばらく聞いていなくて声を忘れてしまっていることも原因の一つなのではないかと思います。

その人の発する声を記憶していれば、それが近い過去に頻繁に聞き覚えがあれば、そうそう間違えることはないと思われます。

 

音楽に話を戻すと。

 

良い音楽、良い演奏を身近に聞き慣れることは非常に大切なことと思います。

例えば、友人の声を覚えるのに「この人は○○の癖があるな」と考える小学生はいないと思うんです。

毎日聞いている、頻繁に聞いているからこそ、そして興味があって認知しようとしているからこそ、記憶します。

その記憶は分解された要素を一つ一つ論理的に記憶するのではなく、まるっと面で記憶するのではないかと思うのです。

 

良い音を記憶することは、先に「音楽表現の道筋」であると仮定しましたが、であるなら、身近に良い音が存在することは重要です。

良い演奏録音を聴く、良い演奏かの音を聴く、生で聴く、好きになる。

そういう、理屈で「この音程は440HzのAである」という分析ではなく、「あぁいい音だなぁ」という面なんだと思います。

そう考えると、その「良い音」をできるだけ身近に、しかも興味を持って聴くことがとても大切ではないかと思うのです。

 

楽器を教える方は、機会の許す限り「良い演奏」を「興味を持たせて」聞いてもらえるよう、自らの演奏技術を育て、レパートリーを増やし、どんどん演奏してあげてほしいと思います。

その中で、固執した表現ではなく、色々な工夫をしながら、聞き手が「どんな表現が好きなのか」などを探りながらインプットを増やしてあげてほしいと思います。

 

理論を教えようとすると、単音を記憶させようとすると、それは苦痛でしかありません。

理論は裏付けであり、その根幹は「気持ち良い音楽であること」だと思うのです。

特に初期教育段階ではどう音楽に接してもらうかはとても大切なポイントです。

耳を育てる、すなわち「感覚として良い音を感じさせる」インプットを提供することは、その先にある「表現する」という行為に直結することではないかと思います。

 

あとは、「表現したい」と思ってくれれば、記憶を頼りにそのまま表に出してもらい、障壁があれば論理的に記憶を分解して足りない要素を確認する。その要素を実現するためにテクニックを養成していく、という手順で、耳は育ち音楽表現が多彩になっていくのではないでしょうか。

 

「そんなこと分かっている」とお叱りがあるかもしれませんが、もう一度冷静に、先入観や経験則を抜きにして、「本当に耳はそだれられているか」を導く立場の人間は考えてみるべきだと思います。

楽譜に書かれていること

指揮者はスコアから何かを読み取り、表現に結びつけます。

勿論器楽演奏家のみなさんも同じモチベーションでしょうが、指揮者はある種の研究職であり、多角的、総合的な観点から楽譜や音楽に対峙しています。

これにあって、各時代背景や人物像、聴衆のトレンドなどを調査し、その深みを独自の音楽性に掛け合わせて芸術を構築していくわけですが、指揮者の経験や着眼点によって、楽譜に書かれていることは色々な表情を表してきます。

よくYouTubeなどで「指揮者聞き比べ」などがありますが、比較して聴いてみるとなるほど指揮者によって同じ楽譜が色々な響きに変わるなぁと感心させられることでしょう。

 

では、「楽譜」とはなんでしょう。

 

作曲家の皆さんが楽譜に「このような音のイメージで演奏してほしい」という思いを認めていると思いますが、その通りの演奏になるかは指揮者や演奏家に委ねられています。

作曲家の中では「出版にて自分の手許より離れていく」という感覚をお持ちの方も多いと思われますが、それでも作曲家の頭にある音楽は現実に存在するわけで、それを実現するには自作自演(指揮)という形が望ましいと思います。

バロック時代やその後の古典時代は、作曲家という職業ではなく音楽家という職業で、音楽の制作から演奏、ステージングに至るまですべて任されていたのが今で言う作曲家です。

勿論演奏にも携わっていますので、作曲〜演奏まで彼の中の音楽であったことは否定できません。

 

古典音楽などを現代の指揮者が再演する意味とは何でしょう。

彼らの音楽は「楽譜」という情報でしか遺されていません。

これをどう紐解いて、どう演奏するかは指揮者と演奏家の協業でしかありえなく、作曲家の頭にある音楽は既に消滅してしまっています。

ですが、これをどう考え、どう解釈して演奏に結びつけるか。ここが主に現代の指揮者が担う点になります。

演奏家は自分の楽譜をどう演奏するか。指揮者はそれをどうディレクションするか。

 

ピリオッドという考え方も確かにあります。

作曲当時の意図にできるだけ沿い、ピリオッド楽器を用いてピリオッド奏法を駆使して。

初演時に生まれた音楽を忠実に再現する再現音楽。

例えば管楽器は現代の高性能な楽器ラインナップはなく、音鳴も成熟しておらずに演奏技術も拙いものであった可能性があります。

そういう「再現性を重視」することも、指揮者の研究職としての役割でしょう。

しかし、現在の技術ではこれを「録音」という技術に置き換えることができます。

録音は音楽の保存という意味では画期的な技術です。

なにせ音源さえ生きていれば半永久的にその瞬間の音楽が残せるのですから。

絵画の利点を音楽の瞬間性を保持したまま取り入れられる技術で、画期的でした。

 

しかし、作曲家はなぜか「録音」に執着しませんでした。

 

自分の頭にある音楽を実現するには、楽譜を書き指揮をし演奏をし、できるだけ忠実に音にする。

そしてそれを録音してしまえば、完璧な自分の表現を遺せるでしょう。

しかし、未だにそれをしない作曲家。

これはなぜでしょう。

 

一つは「録音の限界」が理由でしょう。

録音と言っても、場の空気や温度、聴衆や演奏家の感情まで残せません。

音楽にとって、瞬間芸術にとって、こうした要素は不可欠ですので、生演奏に勝てない部分です。

 

もう一つの大きな理由は「楽譜の抽象性」でしょう。

楽譜は抽象的に音楽を記録する方法です。

楽譜や録音以外では古くからケチャや伝承で伝えられる音楽もあります。

これらに一致することは「変化」です。

「感性と感性のコンタクト」といっても良いでしょう。

演奏家や指揮者が抽象的な楽譜という媒体を読み解き、その解釈の差からまた違った芸術が誕生する。

これが素晴らしい進化を体現できる方法だと気づいているのだと思います。

発想記号(「アレグロ」や「レント」など)も、言語学的に時代背景で感じ方は変わってきますし、調律や音律などでもその雰囲気は変わってきます。

そうした「解釈の差」が、作曲家が頭にしていた音楽よりもまた変わった形で再現される。この魅力があるので「楽譜」が今でも活用され、演奏されるのでしょう。

 

楽譜に書かれていることの大前提は「進化させてください」ではないかと思うのです。

この前提条件を理解しなければ、再現芸術として価値認識されないように感じます。

 

そして、「再現芸術」には「録音」と「再演奏」の2種類が存在し、互いに得意分野(狙い点)が違うことを留意しなければならないと思います。

カンファレンスを開催してみよう。
先日、知人の指揮者と懇談した。
なかなか機会が持てずに、やっとタイミングを持てたので沢山意見交換をしてきた。
とても刺激になり、色々な事を動かしてみようと思える、実りある懇談だった。

その中で、「日本の音楽教育の足りない点」のような話になった。
日本の音楽教育に足りない部分は、偏に「音楽教育」そのものではないかと。
特に楽器の演奏家は本当の意味での「音楽教育」はあまりされておらず、楽器のテクニックは沢山学んでいるがそれを活かす音楽の教育はとても薄いように感じる。
勿論、個人差はあるだろう。テクニックも大切な教育だろう。しかし、音楽の心や楽典の意味する音楽の本質や歴史との調和、これからの表現などの「深い意味での音楽素養」が足りないように感じる。
音律の歴史、楽典用語の語源、日本古来の言葉での音楽表現、作曲当時の音楽事情、こうしたものが知識として身についているだけで、音楽を表現する幅は格段に広がるし、特に音律を学ぶことは西洋音楽における表現の正当性を担保する重要なものであると思う。

しかしながら、例えば「Largo」と「Lent」と「Adagio」の差、「allargand」や「marcato」の意味、平均律と純正律の歴史やその他の音律の存在、各作曲時代における楽器の性能、ピリオド奏法、教会調律の変遷、その他数々の音楽における「知識」は、座学で簡単に「当然知っている」とみなされて教育が進んでいる。
日本語出版の音楽辞典を用いて、本来の意味に到達することのない楽典。
作曲の時代背景を理解できずに取り組むアナリーゼ。

昨今、日本の作曲家はとても活力があり、数々の作曲を手がけていますが、何故日本語で楽想を書かないのか。
ドイツ人はドイツ語で、イタリア人はイタリア語で、フランス人はフランス語で、ロシア人はロシア語で、それぞれ楽想や演奏指示を記載しているにもかかわらず。
このような部分を、演奏家の皆さんはどれだけ理解できているのか。
演奏を拝聴するたびに、上記疑問が沸き上がってきていました。

そのような話を酒を酌み交わしながら話していて、「じゃ、そういう若い演奏家向けにセミナーを開いてはどうか」という話になりました。
暫く前にそういう事を私も考えており、このblogのカテゴリも作成していたのですが、なかなか腰が上がらず。。。
ちょっと反省。。。
しながらも、「これはチャンスだ」と感じています。

ということで、セミナーを開催する方向で調整中。
こちらのblogでご案内しようと思っています。
パネラーは指揮者。
指揮者の仕事といえば、既出様々な音楽の勉強に他なりません。
ですので、器楽演奏家の方々も納得の内容になるのではないかと。

もう少し内容を練って考えてみますが、下記のテーマで攻めてみようかなと。
・プロを目指して音楽大学などを卒業した若き演奏家たち向けのセミナー
・アマチュア音楽家達がより深く音楽に触れることが出来るようなセミナー
・吹奏楽指導者(含む教員の方)が実際の指導における音楽に対する造詣を深めるセミナー
・音楽を楽しんで聞く方々向けに、演奏を交えながら音楽を楽しむポイントを見つけるセミナー
このような内容で、全てを同時にとは行きませんが、ピンポイントで内容を作成し出来れば全国行脚出来れば良いかなと。

文化を継承し、楽しみ、育んでいける日本を作りたい。
そして、少しでも多くのクラシック音楽愛好家が楽しめるような社会を創造していきたい。
そんな事を考えながら、楽しくセミナーを開催出来たら嬉しい限り。
2015年は早々に動き出します。
音楽の高さ
器楽を志す方々における問題点は、器楽演奏技術の向上に固執してしまうことだと思います。
一番わかりやすく、自分の努力が形になって現れるので、傾倒しやすい性質があります。
これをうまく取り入れたのは「吹奏楽部」だと感じます。
日本の学校教育で「評価」は重要なファクターであり、教育の優劣を確認する上で、また教育進捗のバロメータとして、「模擬試験」などという文化も存在します。
「吹奏楽部」の世界では、吹奏楽コンクールというバロメータを用いて、これをクリアすべく「審査基準」に従い器楽演奏技術を生徒に学ばせ、結果として「賞」を獲得します。
このモデルはとてもわかり易く、「権威」の「評価」で自分たちの「結果」を形にしてくれるスキームです。
ただ、「音楽を実施する」というレイヤーではあまり意味がありません。
何故かと言うと、目的(高次レイヤー)に対する達成と「評価」を置き換えてしまっているからです。

技術力は即ち「説得力」になります。
ですので、説得させるためには技術は必ず必要になります。
特に器楽演奏は技術なくしては説得力は得られず、一人よがりのものになってしまいます。
「何に対して説得するのか」が本来重要で、しかしこれは「技術力を追求する過程で感じてくるもの」です。
この部分をどう生かしていくか。
そして、この場合の「技術」は「器楽演奏スキル」だけではないのも厄介です。
色々な「技術」が重なって、説得すべき表現が存在します。

さて、なぜ「表現する」のでしょうか。
表現する目的は、「自己顕示欲」でもあり「幸福追求欲」でもあり「他者への啓蒙欲」でもあります。
自分一人が分かっていても満足できないのです。
音楽という媒体を通じて、自分の表現力を他者に顕示したいと思うのでしょう。
当然「器楽演奏技術」だけでは満足できなくなっていきます。

さぁ、「表現」の先にあるものは何でしょうか。
空間の一体感であり、融合であり、理解であり、安心であり、共感なのかなと思います。
感情として個から集に移行する過程で、個それぞれの乖離が問題になってきます。
ですので、媒介として「音楽」を利用し、「表現」という伝達素子で「伝える」ことで「一体感の形成、融合、理解、安心、共感」などを得るのではないでしょうか。


思うに、私が「音楽の高さ」と言っているのはこの辺くらいまでかと思います。
その後は「音楽」ではなくなるのでしょう。
より高次に考えが推移していき、「音楽」も要素の一つになると思います。
とても哲学的ですが、こうした「高さ」を考えるに至る年齢になりつつあるのでしょう。

技術を追い求める姿はとてもわかり易いです。
しかし、その上位にある目的を無視してはいけないと思います。
そして、人間の学習はこうした「低次レイヤー」から形成され、次第に高次へと深化していくのであると思います。
これは、音楽だけに依らず、色々な「目的感」がこうした次元を有しているとも言えます。

よく「音楽は愛だ」とか「音楽は平和だ」とか耳にしますが、一度「何故そうなのか」を順を追って考えてみると新鮮かもしれません。
信念
ホットなニュースに「ゴーストライター」という話題があります。
ある作曲家が別の作曲家に作曲を依頼し納品してもらった楽曲を自分の作曲だとして発表し、それが音楽として認められ世に出てしまった。
本人たちが事実関係を公表し報道では倫理的問題を提起しているという感じです。

私はこの「問題とされている行為」はあまり音楽には関係ないと思っています。
作曲者が誰であろうと、生まれてきた音楽はそれ自体が全て。その楽曲が素晴らしいのであればそれは評価されるべきです。
勿論生み出した作曲家が音楽の評価によって同時に評価されるのは普通の流れですが、音楽を主眼にした場合、それが喩え嘘の作曲家であろうとも音楽は何も悪くないです。
倫理観として、作曲家の資質は問われてしまうでしょうが、この先何百年何千年と遺っていく音楽は普遍です。

音楽は人々の思いやポリシーが反映されるものではないかと思っています。
理論などで枠を嵌めるのも良いことです。制限があることが自由を表現する必要条件だからだと思います。
理論自体を飛び越えるのもまた理論があるからの行為です。
ですので、一定の枠に対するポリシーがあることが大切であり、その枠に対してどのようなアプローチが出来るかが重要ではないかと思います。

作曲は、ある一定の枠を我々に提供してくれる偉大なる行為です。
我々は作曲家が生み出す音楽の枠組みをどう料理するかによってポリシーが表現できるのではないでしょうか。
ですので、作曲された「枠」すなわち楽曲は、その存在を否定することは我々には出来ません。
人間の倫理観などで左右されるべきものではないと思います。

作曲家のゴーストライトに関する倫理的問題はそういう事を扱う専門家さんたちにお任せするとし、我々演奏家は楽曲自体に目を向ける必要があると思います。

吹奏楽コンクールという文化が日本には存在します。
私もこのシステムを利用して色々なことをやってきました。
こうした枠組みに対して自分たちのポリシーを音楽でぶつける事が、私の特技だと勘ぐっています。(決して吹奏楽コンクールに特化しているという意味ではありません。むしろ殆ど関与していません。)
時代背景、聴衆、ホール、楽曲、演奏家達など。
音楽で何かを表現するために必要な枠組みが世の中には沢山あります。
これをどう料理するか。我々が行わなくてはならないテーマだと思います。

演奏家の皆さん、ポリシーを堅持し、自分にしか出来ない音楽を、色々な制約の助けを得て、実現したいですね。
例えば作曲家のポリシーやモチーフなどを制約に感じながら。
それが自由な表現への第一歩だと思います。
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