シラブル
アンブッシュアとシラブルは、金管楽器奏者にとってまさに命と云えるのではないだろうか。
今回はアンブッシュアやシラブル、特にハイトーンにおけるシラブルの使い方を書いてみたい。

アンブッシュアで一番重要だと云われているのが「顎上の窪み」と「鼻横の放射筋」である。唇に一定の緊張を与えるために唇環状筋を中心に放射的に緊張させる事で、環状筋の筋肉だけの緊張ではなく唇が緊張する。
仮に環状筋のみで緊張を得ようと思うと、丁度唇をすぼめた形になる。これでは音が出ないのは一度でも金管楽器を奏した者であれば直ぐに理解できよう。
放射筋があるからこそアンブッシュアが維持でき、弦楽器の調弦のように音程を確保する事が出来るのである。

では、音程乃至音色を決定する要素は、アンブッシュアのみであるのだろうか。
答えは否である。
音が発音されるメカニズムを金管楽器だけに譬えて云うと、要素は4つである。

・管楽器の長さ(波長と同期)
・身体の共鳴体(波長と同期)
・息のスピード(周波数と同期)
・管の形状(倍音に同期)

管楽器の長さと管の形状は変化させる事が出来ない。尤もバルブやスライドなどでアクションする事により管長は変化できる。が、これは共鳴倍音を波長の立場から同期させるだけに留まる。
音は周波数が音高になるのだから、その波長は周波数に依存すべきである。
では、周波数を決定するのは何か。
発音体の緊張状態に対して適切な息の摩擦が生じると発音し始める。
そしてその周波数は通り抜ける摩擦の大きさ=息のスピードで決定される。
であるなら、息のスピードこそ実は音高を左右する最も重要な要素であるのだ。

息のスピードは肺活量と息が通る道の抵抗に関係する。
もの凄く大雑把に言うと、肺活量の高い人は沢山の息を一気に排出できるために高音が出やすい。また、身体が小さい人は息の通る道が細いため、同じ息の量を使用してより高い音が出やすい。
あくまで理論上の話であり、矛盾も当然あるので体型に左右されないのであるが。

よって、裏を返せば「息のスピードを簡単にコントロールできれば音高は自由自在になる」のである。

そこで登場するのが「シラブル」である。
勿論極端な変化は発音自体を変化させ、共鳴体である身体の一部の形状を変化させるために多用すると音色が損なわれる場合がある。
では、踏まえて整理すると、
・音色が損なわれないよう工夫して
・シラブルを変化(息の通る道を変化)させると
・音程が変わる
ということが理解できる。
よく教則本で高音域は「イ」の発音、低温域は「オ」の発音などと記載されているが、これはひとえに「息の通る道の面積を狭めれば高音、広げれば低音が出やすい」と言っているのである。
これに舌の動きを加味すると、実は多くのプレイヤーが難儀している「ハイトーン」が楽々出せる事になるのである。

よく考えてください。プロの奏者があんなに綺麗に簡単にハイトーンを当てるのには、何か秘密があると思いませんか?

先ほども記載したとおり、音色の変化があるためにシラブルの多用は良い結果を生むとは限らないが、この原理は管楽器であれば全て当てはまるので、木管楽器にも適用できるのである。
特にフルート奏者は音高が上がれば音がぶら下がり、音高が下がれば高くなる。
これは「息のスピードと管長がマッチしていない」のである。
フルートの場合、口元は発音に関係ないためにアンブッシュアの変化も利用できるので、上記考え方を更に実現しやすい楽器でもある。


ダブルハイの世界は、さほど難しくないのか見知れない。

次の機会には「フラジオ」「強制倍音」をテーマにしてみようと思う。
音楽を創る
音楽という分野は瞬間にして消え去る儚い芸術分野である。
時間という動かざる流れに対し、音という五感の一つを(主に)利用して人間の心に訴えかけていく芸術性。
そのメカニズムはシンプルであり且つ奥深い。

これを具現するために音楽家は色々なテクニックを用いて、歴史上の表現を学び、自分の芸術を創っていく。
もう少し視野を広めれば、自然の奏でる音、生活による音、時計の秒針音、電車の音、船の汽笛、緩急、突如、囁き、呻き、このような形容詞や状態を音という媒体を使って表現する事により、発想者の核となるイメージに依らない、新しい捉え方を含みながら聞き手の心で育っていく。

人間には人間の大きな特徴とも言うべき能力「言葉」がある。
言葉は主に音に乗って運ばれ、その音に特定共通の意味を付与して相手へより具体的に訴えていく。
語彙の広がりは留まるところを知らず、音を変え意味を変え、成長を続けている。

そうした「音」を抽象表現に用いる動機は、やはり「伝える」事であろう。
自分の思いや感情や経験を、抽象表現していく。
しかも共通点や法則を踏まえつつとても自由に伝える手段としては、非常に優れたものだ。
しかしながら、その多岐に渡る素材に人間はもてあます事が暫しあり、人間自体がその素材を「厳選」という名の仕切で括り、音の語彙を作ってしまう。


本来、音楽の世界はジャンルや楽器(発奏方法)にとらわれずに自由であるべきである。
そして、伝える内容は「音」ではなく、「感情や経験」であるはずである。
であるなら、音楽の素材はテクニックや理論ではなく、思いや経験と言った音楽以外の自らの蓄積がそれにあたるであろう。
だとすると、主に器楽の世界での「トレーニング」はあまり意味を為さない。
基本的な「器楽の扱い方」を習得していれば、音楽は表現出来るからである。
しかしながら、人間はやはり「大きすぎる世界観の中では孤独を認識する」生き物であり、自らの決まり事を以てその世界を「狭めていく」。

本当は、まだまだ多くの世界があり、音を創り出す素材は沢山ある。
楽器やテクニックや知識では制約出来ない、表現という名の大きな素材達。
其れをどう具体化させてやれるのかは、「創造」して「表に出す努力」を惜しまない事が肝要だと私は思う。
そして、その制約が蔓延する我々の感覚世界では、後ろにある大きな素材をどうこの世界でより具現化していく事が楽しいのであり、創るという事はそうした制約下での主張・同調・歓喜なのだと思う。


君よ、自らの世界観という壁を打ち破り、大海に船出しよう。
より大きな源流より、今までに経験した事のない宝石を見つけ、磨き、制約社会に打ち付け、「私の芸術此処にあり!」と高らかに叫ぼう。

その第一歩は、
「自分の殻を知る事」
そして
「細かい事にとらわれずに新しい世界に手を差し入れる」
事ではないだろうか。

私は、そんな音楽をし続けたい。
スランプの考え方・克服法
楽器を演奏している方(勿論歌の方も含む、以下省略)は、ある程度長い経験をお持ちであれば誰でも一度は経験する状態、「スランプ」。

三省堂「大辞林 第二版」によると、
(1)気力や体調が一時的に衰え気味で、仕事の能率や成績が落ちる状態。また、その時期。
「―に陥る」
(2)不景気。不況。
(3)生コンクリートの軟度を表す数値。円錐台形の枠に詰めたコンクリートの頂部が、枠を取り去ったとき何センチメートル低くなるかで表す。

とのこと。
まぁよく判らない。

では、三省堂「EXCEED 英和辞典」で検索すると、
(価格などの)暴落(する); どすんと落ちる(こと), どさっと倒れ込む; 不評; 〔米〕 不振, スランプ.

とのこと。
どうも経済用語らしい。
語源から行くと、丁度先日の某六本木ヒルズに本社がある会社の株価は、将にスランプである。


スランプとは、「思いもしなかったくらい急激にマイナスの方向に転じてしまう現象全般」を指す言葉として、日本ではどうやら使われているようだ。
では、楽器演奏における「スランプ」とは、一体何なのだろう。

まず、認識しなくてはならないのが、
「スランプには原因がある」
ということである。
どんなスランプでも必ずそのスランプを引き起こした原因は厳然と存在する。
某会社は家宅捜索という司法介入を受けた時点でスランプ状態になった。
楽器のプレイヤーでも何かが起こっている。
ただ、その原因を特定することは非常に困難なことである。
原因を追及しようとして更に深いスランプに陥る光景は何度と無く拝見している。

また、スランプは
「急激に下降する」
事も強く着眼すべき点である。
当に「下落」の言葉通り、今まで(先ほどまで・昨日まで)の自分が嘘のように、全く思い通りに楽器が演奏できなかったり、音色が変わってしまったりする。
其れこそ「青天の霹靂」である。

上記2つの事象は見誤ると総ての対策が無意味になるばかりか、更に悪化させる結果になる。
「もしかしてスランプ状態かも」と感じたら、まずは分析をすることが肝要なのだ。



では、どのように分析を進めていけばよいのか。

先ほどの語源を探ってみよう。
まず、そのスランプが一過性のものなのか恒久的なものなのかの信憑性を確かめる。
それは、まるで機関投資家たちが例の事件に対する可否を意見し合っている、当に其れである。
そして、その現象に原因があり、その原因が真実且つ恒久的であれば、そのスランプは現実のものとなる。
現に先程の例では、確定を見るまで買い戻しなどの策略があった。
これは、「もしかしたらすぐに脱出できるスランプなのでは?」と、プレイヤーが躍起になって練習する様、そのものではないだろうか。

そして、原因や状況として、自ら「スランプである」と認識したら、あとは実は簡単なことなのだ。

そう、「反省」して「更正」すれば良いのだ。

今まで行ってきたノウハウスキルをフル活用し、最初からゆっくり、焦らずに積み上げたらよい。
確かに自分の経歴を最初からやり直すのは容易な覚悟ではないだろう。しかし、今までのノウハウがあり、実績を身体が覚えていれば、ある瞬間にまた思い出してスランプ状態から一転する。

実は、「そのことを信じられるか否か」なのだと思う。
レッスンを受けても、トレーニングを進めても、自分がやっていることに自信が無ければ絶対に為し得ない。
長く続くことも無いであろう。



では、スランプに対する対策で、一番効果的な方法とは、一体なんだろうか。

懸命な読者ならもうお判りであろう。

そう、「普段の練習を信じる事」なのだ。




納得の行く練習を、納得の行くまで行う。
その積み重ねが、唯一無二の「スランプ対策法」なのである。
ミュートの話
管楽器、殊更金管楽器には必ず「ミュート」という弱音器がある。
ミュートというのは、オーディオ機器にも装備されている機能で、この場合は「音を消す」機能であることが殆どである。

管弦楽法でミュートを使用する例は結構多いが、私の場合はミュートを「弱音機能」と考える場合と「ミュートを装着したその楽器の音色」と理解する場合と2通りある。
ミュートでffを指示する作曲家の意図がこの後者の例である場合が多く、例えばストラビンスキーの「ペトルーシュカ」4楽章最後のTpミュート強音がそれに当たると解釈している。
効果的なオプションとして他の演出例は、例えばレスピーギ作曲「シバの女王ベルキス」最終楽章に出てくるTpとTrbのファンファーレ隊や弦楽器で時々使用されるコル・レーニョなどもこうした機能の一つであると思われる。

私はEuphoniumnを専門としているが、この楽器はオーケストラでは殆ど使用されない楽器である。
吹奏楽でオーケストラの曲を編曲して演奏する場合によく割り当てられるのがVc、Fg、Cor、Trbのパッセージが多く、時にCBやTbなども振られることがある。
こうした場合、原曲を損なわないためにしばしば「元の楽器の音色をまねて奏する」ということを私はする。
特にミュートや持ち替え(バリトンやテナーチューバ、果ては同じEuphoniumnでもメーカーの違う楽器を使用する場合も・・・)を多用する事で思う音色を的確に出せる場合もある。
殆どの場合は体内共鳴を変化させ、強制倍音などで響音を変化させて音色を変える場合が多いが、その際の選択肢としてもミュートというのは非常に便利なのである。
例えば、Fgなどを吹き替える場合は特にFg音色の特性である「乾いた」感じを欲しくなり、ミュートする場合が多い。
金管楽器は朝顔があるため、特に音が観客まで飛びやすい性質がある(例で言うとTpやTrbなどは典型)。なので、弱音を出しにくい楽器であることはプレイヤーなら体験している事だが、Fgと同様のppを演出する場合は強制倍音等で乾いた音を表現できても、弱音が難しくなる。と、このとき登場するのがミュート。

賛否両論があるのだが、オーケストレーションを構築する際に是非この「ミュートの機能」を深く考え、構成音色の一つとして捉えて欲しいと感じる。
特に管楽器の事をよく知らない作曲家は、音の特性と楽器の特性を勉強したなら尚更この「ミュート」についても熟知して頂ければ、より効果的な展開を創り出す事が可能になるだろう。
表現記号の解釈(管楽器の奨め3)
現在私はある市民吹奏楽団の奏者としてアマチュア活動を行っている。
その中で出てきた事を書いてみよう。

俗に言う楽譜という書物には、面倒な事に「音を言葉や記号で表す」といった難解なテーマが込められている。
作曲家はその制約の中で、如何に自らがイメージした音を表現して貰えるか、その言語を選択することにまず注力する。
同じ音符を書いても、その付帯表現は実に様々。
仮に全く同じ記載が為されていても、その音楽構成で解釈は変わってくる。

私は以前より「テヌート」という表現に拘っている。
単に直訳すると「その音を十分に保つ」と訳される場合が多いが、では「十分」とは?「その音」とは?「保つ」とは?
一般的に対象となる音を一定の音量・音程で音符の長さ一杯まで音を出す、「ようかん型」の音型を指すが、本当にこの解釈だけで良いのだろうかと常々思う。
知人の作曲家に聞こう聞こうと思っているのだが、ついおざなりになるくらい突如感じる事なのだ。

例えばアクセントだが、アクセントにも横向きと縦向きが存在する。またスタッカートも通常のスタッカートとスタッカッシモ、メゾスタッカートなど多種にわたり、その表現も楽曲に依存することが多い。
特に経験が浅いプレイヤーに関してはその奏法も数が少なく、固定された概念による音型をイメージすることは楽器演奏において楽なんだと思うし、指導の立場でも当然簡単になる。
だが、音楽を志す、其れが譬えアマチュアであろうともプロであろうとも、自ら音を出して楽曲を創る事をするならば、そうした概念ではなく「創造の音作り」を目指して欲しいと強く感じる。
音楽を創る行為で、その解釈の差により多種多様な瞬間音楽が出来上がってくることが音楽芸術の一番素晴らしいこと。
かの故チェルビダッケ氏は兎に角「録音による音源保存」を忌み嫌った。
音楽は本番の瞬間だけに存在すべきだという彼の持論は、本当に共感すべき所だ。
だが、彼の音楽も実は全く録音されていないという訳ではなく、私は残念ながら生の音楽を拝聴したことがないが、ビデオで拝見したことがある。
音楽に対する姿勢、息づかい、想いが強く伝わってきたその記録だが、見た瞬間「本番に行きたい」と思った。今では其れが叶わないのが悔しいのだが。

音楽の表現というのは指揮者だけに依存されるべきものではない。
作曲者、指揮者、奏者、聴衆、時代背景、自然、時間の総てが構成され、その瞬間瞬間がユニークな音楽を創り上げる。
当然、その解釈は千差万別。
「この記号はこう演奏しなければならない」という概念発想は、瞬間芸術を否定し得る程の事だと私は思うのだが、読者は如何であろうか。





音楽を志す者よ。
時間という素晴らしき素材を十分堪能して欲しいと、私は切に思う。
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