Rhythmのお話
Rhythmは時間軸の中に存在します。
時間軸とは不変であり、必ず一定の時間空間を刻みます。
Tempoという概念がありますが、これは音楽上では「一分間に何拍入れるか」で数えますので、やはり時間軸が存在します。

さて、ではRhythmですが、これも同様です。
時間軸の中に存在し、記譜されているRhythmは表現上一定です。
しかし、人間が感じるRhythmには搖らぎがあります。
同一時間軸にあって、その拍を構成するタイミングは実は様々です。
これを、ある音楽ジャンルでは「Groove」といいます。
Grooveを表現するにあたり、Rhythmが時間軸に対する搖らぎを利用する。これは「規制」の中に存在する「自由」であると思います。

しかし、Rhythmは「規制」されていますので、Tempoや時間軸に支配されています。
その中にあって、揺らぎとして赦される範囲を利用してGrooveというタイミングを成立させています。
なので、少なくとも全く勝手なタイミング取りではなく、規制された、記譜された制約の中で、どうGrooveという「第三の世界」を盛り込むかが、人間が感じる音楽で重要であると思われます。

クラシックの世界では発想記号や解釈上の「溜め」などでGrooveに近い事を実現します。
これはクラシック以外の音楽より制約が少ないはずです。
概念としては「呼吸」「Breath」になります。
時間軸を歪めるのではなく、あくまで「搖らぎ」の部分を利用しています。
時間軸を左右させる記譜にはFermataやGPなどがあります。
これ以外に「溜め」と呼ばれる、一見時間軸を動かしている挙動ともとらわれがちな行為があり、しかし実はこれらは時間軸の支配下にあるのです。

例えるなら、演歌歌手と酔っ払いのカラオケです。
時間軸に支配される歌手は、きちんと時間軸の帳尻を合わせます。
これは、揺らぎの拡大で、時間軸に対向する、乃至遅延する事で強調している手法です。
酔っぱらいのカラオケは言わずもがな、支配から脱走しています。

さて、適切な揺らぎを実施するにはどうしたらよいでしょうか。
合奏に視点を限定すると、揺らぎの提示者(指揮者など)が作成する揺らぎを理解し、演奏家が実現する事が必要です。
その際に、指揮者は時間軸の支配を感じなければなりません。
また、その制御された揺らぎを指揮に的確に伝達しなければなりません。
そして、演奏家はその意図を微細な指揮コミュニケーションから感じ取る必要があります。
記譜以上の搖らぎの表現において、事前の申し合わせはほとんど役に立ちません。
人間が提示する揺らぎは、再現性がないものです。
また、環境によっても効果を実現する手法、タイミングは変わります。
ですので、料理と一緒で、「レシピはあってもいいが、その時の味付けで必ず味見をしなければ美味しい料理は作れない」ということです。
言い換えると、「事前の多少の申し合わせや楽譜はあれど、本番の瞬間にホールや聴衆、演奏家のコンディション、その他多くの情報を鑑みて揺らぎを設定しないと素晴らしい音楽に結びつかない」ということになります。
また、「その瞬間により良い音楽をと追求することが必要」だとも考えられます。

全くの申し合わせがない状態では、どんなに指揮を解釈する力が高い演奏家でも対応できません。
何故なら、そうした演奏家は既に頭のなかに表現のイメージが出来上がっているからです。
表現のイメージが演奏家にない場合は、例外なく演奏はつまらないものになります。
個々のイメージを繋げる作業を指揮者はプローベで行いますが、その際に揺らぎの調整も行います。
時に調整するだけの時、指揮で表現する時、言葉などを駆使して揺らぎのプレゼンテーションを行う時。
ニーズマッチした手法で音楽を集約していく作業です。
いずれにせよ、いきなりでは対応力にリスクが残り、思った音を本番で表現できない結果になります。

冷静に、指揮を読み、冷静に指揮をし、分析し、意図を感じ、飽くなき向上心で本番に対峙する事が、至高の搖らぎを実現し瞬間芸術たる音楽に、表現し難い素晴らしさを添えることが出来るでしょう。

そのために必要なことが「制約」です。
時間軸を常に感じることが空間を共有することであり、その変化が支配されていることが再現音楽の醍醐味です。
なので、ある一定の、許容されるRhythmが存在し、許容される正確性を担保すべきです。
これが実現し、初めて搖らげるのです。

ViennaWaltzなどを聞くと、制約された時間軸の中で許容される揺らぎが溢れている気がします。
だからあんなに優雅なのでしょうか。
日本人はViennaWaltzが苦手だとされています。
日本はViennaではないですから。
でも、音楽は共通語です。
どこの国でも同じ楽譜です。
ということは、制約条件は一緒で、許容される揺らぎの範囲も一緒だと考えられます。
制約と許容をきちんと楽譜より読み取り、意図する演奏が実現したら、その世界観は誰もが心地良いと思えるのではないでしょうか。
指揮の要素
 先日、指揮の講習会に出席してきました。
指揮者育成のための講習会は国内でも多く開催されております。
現場の第一線で活躍されている諸氏が指導をされ、音楽の解釈方法や指揮の仕方などテーマはまちまちではありますがどの講習会もよく考えられています。

今回出席した講習会では
・指揮の初歩
・楽曲アナリーゼ
・2台ピアノを用いたコレペティ
・小オーケストラを用いたレッスン
がプログラムされており、併設で指揮者コンクールを開催するという盛りだくさんの内容でした。

私も勉強のために何箇所かの講習会に参加経験がありますが、今回の講習会は非常に内容が濃く、国内で開催されている指揮者講習会の中でも門戸が広く設定されているということもあり、参加者も指揮未経験者から実際にオーケストラを指揮しているアマチュア指揮者など幅広い層で構成されていました。

経験上指揮者講習会には2パターンの構成があり、
☆楽曲表現講習
☆指揮法講習
のどちらかに重心を置かれているものが殆どですが、今回の講習会ではその2要素を網羅するだけでなく、実践に役立つ生の声をふんだんに教示し、即実践に役立つ内容となっていた点で、非常に良い講習会であったと感じました。


そうした中、音楽を構成しようとする場では3つの要素が不可欠であり、それぞれの要素をどう効率よく交通整理をしながら音楽を纏めるかが指揮者の重要なポイントであることを認識いたしました。

1.音楽の構成を把握し、作曲意図をまずは正確に把握する。(アナリーゼ)

楽曲は作曲家が意図した音楽の要素であり、作曲家が創り出した音の連続性であると感じます。
作曲家はその楽曲を楽譜に残しますが、楽譜は音要素を忠実に再現できません。
例えば発音のニュアンスやヴァランスなど、作曲家がどう意図をしたかは正確に再現できない。勿論だからこそ演奏家の創造が入り込む余地があるのだが、しかしその要素はできるだけ多く読み取ることが必要である。
アナリーゼは「作曲背景(作曲者の背景)」、「作風(他の楽曲との相関関係)」、「実際の楽譜」を読み取り、どう表現すべきかと要素を拾い出すことが大切です。
また順番は非常に重要で、背景のないアナリーゼはとても独りよがりなものであり、楽曲の要素を誤解してしまうことに直結します。
ですので、出来る限りその正確な要素把握が必要となり、そのために指揮者や演奏家は日々勉強を重ねています。

アマチュア音楽家諸君はこの部分を疎かにしがちであり、充分注意すべき構成部であることを再認識すべきです。


2.アナリーゼで得た楽曲の要素を紡ぎ、自らの解釈を創り出す。(楽曲表現)

皆ここは自信がある方々が音楽家と名乗っているようですが。
結局、より深いアナリーゼによって解決した整合性がなければ、聞き手を納得させる演奏は実現できません。
よくストリートミュージシャン宜しく、街頭でパフォーマンスをやっている若者を見ていますが、彼らはこの部分で「独りよがり」であることが多い。
この問題はクラシック音楽を愛するアマチュア音楽家諸君も同じであり、若しくはプロ演奏家諸氏も陥りがちな過ちであると云えます。
クラシック音楽に限らず、ある種の「規制」(ここでの本意は音楽理論ではない)を得ることは、その先にある「自由」を実現できる必要不可欠な要素であると私は思っています。
例えば楽器は自らの表現を楽器という制約を媒介することで規制が生じ、だからこそ表現を実現できると解釈しています。
そうした中で、その「規制」の一部が「音楽理論」であり、「楽曲」であり、「楽器」であると感じています。
数年前のMacWorldEXPOinサンフランシスコで、「指を穴に入れるだけで頭でイメージしたマウスコントロールが出来る装置」が公開されていました。
人間の文明は既に脳のイメージを直接アウトプットさせる所まで来ています。
当然近い将来、「頭で鳴っている音」を実際に記録して再生できる機械も、出来てくるのではないでしょうか。
しかし、そこに「創造性」や「芸術性」は存在するのか、私は甚だ疑問です。
規制の中で創造する表現は、実は人間が表現をするための非常に重要な一助を担っているのだと感じます。

よって、楽曲アナリーゼを深く行うことで、その表現は実を得、実現に近づいていくのではないかと、私は思うのです。


3.表現を実際に音にする。(指揮)

さて、頭で表現の音が鳴り出したら、指揮者はその音を直接的に間接的に表現するのではなく、演奏家の皆さんに表現していただく方法で創造を現実にしていきます。
そこで助けてくれるのが「指揮法」なのだと思います。
多くの研究家が「人間が持つ思惑を他に伝達する方法」を模索し、多くの分野で研究が結実していると思います。
ですが、こと芸術分野、中んずく音楽の世界は、先に述べたようにその媒介が非常に重要であり、表現とは媒介による非伝達性と研究による具体性をいったりきたりしながら実現していくものだと感じています。
であるなら、指揮を行うという事は、自ら「表現の阻害性を増加させる行為」であると感じます。
しかしながら、その阻害された情報乃至イメージを媒介物質によって突然変異的触媒効果によって成長させることが出来るのも、また事実です。

そうした中で、いかに「軸をぶらさず」「意図している音楽を」「意図しない要素を加えながら」「実現し」「聴衆を引き込むか」。
この背反する事項を四苦八苦しながら行っていく行為を総じて「指揮者の仕事」と言うべきではなかろうかと思います。

そこにセオリーは無く、現場での瞬時の判断が多くの「思いがけない芸術」を生み出し、しかしその裏づけは「執拗な研究」であることは、私の持論であります。






ここまで書いて推敲するに、「あぁ、なんて退廃的な作業なんだ・・・」と筆者は落胆し、自らの力のなさに苦しみながら筆を置きます。

そして、また明日、この退廃的な事と真剣に向き合いながら生きていくのでしょう。
たばこ先入
 本日なんという巡り合わせか、全然違うところであるピアニストさんにお逢いしました。
彼女は結構名の知れた指揮者のコレペティをよくされていたそうで、指揮の話で盛り上がりました。
そこで出た話の中に、「たばこ先入」なるものが。

先入法とは、斉藤指揮法の中で核となる指揮法で、バリエーションも多彩ですしこれを理解していることで実現できる事は多いです。
勿論「形式化された方法論では音楽は運べない」のですが、知っていると実現できる音が広がります。
そういう意味では斉藤指揮法は世界に輸出できる位の理論です。
その中でも「半先入」という技術があります。
これは、先入法では踏襲できない、「軽い引っかけ」に使います。

多くの楽曲が作られた時代には斉藤指揮法は存在しておらず、このメソッド自体は後付であると言えますが、そのためにニュアンスが出せない楽曲も多々あります。
先日私はドボルジャークの8番を題材に指揮のカンファレンスを受けました。
その際に第一楽章における最初のテーマを引き出す棒にとても迷った経験がありました。
このピアニストの言う「たばこ先入」は、半先入やA先入では実現できない、微妙な先入を実現します。
目から鱗でした。

斉藤指揮法が全てではないとは勿論思っています。
指揮には多くの要素があり、私自身技術云々より必要な多くのことを理解しているつもりです。
しかし、本番をよりよく実現するにあたって、指揮法は一つの武器になると考えています。
(これも多くの方々に指摘を受け、現在悩んでいます)
まぁ、武器である事は変わりなく、重心をどこに置くかという話なのでしょうけれど。

この話は別の機会に。

で、その「たばこ先入」を使うと、実は思っている音が出る場面が多いことが判りました。
特に弦楽器における先入法はとてもニュアンスが難しく、重さを出すあまりアゴーギグが死んでしまったりしますので、先入法でもどの先入を用いるかで音楽の運びが全然変わってきます。
その中で、「もう一つの先入」を手に入れたら、それはそれは多くの場面で有効なのです。

その方との話で、こんな話も飛び出しました。
その方はコレペティを多くこなされているので、指揮法を在る程度理解しています。
特に斉藤指揮法でのコレペティは経験豊富。ですから、理論は理解しているし、多分やれと言えばある程度出来るでしょう。

でも、その方は「私は指揮者にはなれない」と仰いました。
その方曰く、指揮者に必要な「要素」というか、「条件」は、
●奏者に納得させる事
であると仰ったのです。

「納得」

これはもの凄く大変な事で、普通の指揮者は楽曲理解や音楽性でその納得を得ようとします。
しかし、本当に納得させるには、奏者の楽器を取り上げてその奏者より自分のニュアンスを実現できる位の事が出来なければ駄目だと思います。
本来指揮者としては「門外漢」であり、「仕事が違う」事なのですが、しかしながらその説得力を得ようとしたらそれくらいの芸当は出来ないと駄目かなとも思います。
指揮者にピアノはつきもの。これもそういう事だと思うんです。
しかしながら私はピアニストではない。
ピアノは触りますが、それはスコアの音を実現させるための手段でしかない。
ピアニストとは違います。

実は現在陥っているジレンマがそこであり、少なくとも弦楽器は出来ないとと考えています。
ボウがうまく作れないのは、無理があるからです。
音楽表現と演奏技術のヴァランスをとってあげる必要がある、特にアマチュア楽団では、そうした「トレーナー的要素」は必要不可欠であり、であるなら今まで経験していない「弦楽器」を克服すべきだと考えています。

これにピアノが加わったら、自分の生活を守る収入を得る時間がありません。
だからこそ、音楽はお金がかかるのでしょうね。



本日は七夕の夜です。
私の天の川はどんな織姫と引き合わせてくれるのでしょう。
指揮の仕事、演奏会の目的
此処を見て居る方々の中には実際に指揮者を見て演奏活動されているプレイヤーも演奏会で聴くだけの方もCDで聴くだけの方もあまりクラシックに触れる機会のない方も居るだろう。今回は色々な視点での「指揮者」という仕事と見方を書いてみようと思う。

指揮者の仕事はその場面場面によって大きく変わる。
プレイヤーの素材や目的、楽曲、その他あらゆる事象が自分の仕事を左右する。
スタートラインの見極めが本当に大切であり、また現状把握で認知を進める事が仕事の大半を占める。
その現状認知と目標設定(修正含む)を明示出来る表現方法であればまだ良いのだが、具体的でない(言い換えると認知しづらい)ものであるが故に、音楽全体への上記周知がなかなか思うようにいかない場面は多々ある。
また、方法論や計画、目標設定を見誤るとプレイヤーとの共有すべき意識が薄れて音楽が惰性になり纏まらない結果になる。

上記に加え、演奏会の聴衆に関しても同じような事が云える。
演奏会を聞きに来る聴衆は、ある種「イメージしているもの」を求めてくる。
その中で更に「今までイメージし得なかった新しい発見」を評価する。
この矛盾した事象を満足させるために、演奏会は相当神経を費やさなくてはならない。

上記のような総合的な、そして音楽的なプロデュースを行うのが現代の指揮者の仕事であり、その評価はこれまた矛盾しているが「音楽表現」でしか評価されない事が多い。

さて、音楽に関する部分で言うと、その音楽性は前出評価の根幹になるのだが、これも「受けが良い」「受けない」表現もある。
以前ある邦人作曲家の初演演奏会に行った事があるが、壮大なテーマを壮大な時間で壮大な楽団体制で演奏されたが、そこにいた聴衆の中で「総合芸術である認識」を持っていた人は何人いるだろうか。
それは、曲の題名が「交響曲」であったことにも起因するが、音楽特にクラシック音楽の演奏会での難しい一面なのではないだろうか。




話は変わって、実際の指揮に関する部分を見てみよう。
指揮者の仕事は大別して下記がある。
・テンポや動きなどの「音楽に直接訴えかける部分の統率」
・場の雰囲気や空気、静寂などの「音楽をとりまく時間の統率」
・プレイヤーの目的意識や動機などの「演奏家の統率」
その中で、やはり着眼される部分は1番目の「音楽に直接訴えかける部分」である。
此は、演奏会までのリハーサルにおける仕事であり、現状把握から始まる。
その演奏家達が現状どのような意識で演奏に取り組んでいるのか、音楽を表現する引き出しはどのくらい持ち合わせているのか、統率すべき方向性は演奏家達の方向性と相反していないか、自らの持ち得る音楽イメージを伝える事に成功出来るか、等である。
また、「時間の統率」に関する部分では、プレイヤーや観客が集中して演奏を行えるか、その視覚的効果や聴覚以外の(若しくは一部聴覚をも含む場合があるが)感覚が音楽を聞き込み感受する体勢であるかどうか。
演奏家の統率という部分では、一つの音楽に向かってベクトルを引き出す体勢であるかどうか、そのベクトルは受け容れられているのかどうか、自己満足でないかどうか、プレイヤー自体が満足出来る動機と結果が得られるかどうか。

指揮者はそうした色々な事象を踏まえ、苦慮しながら音楽を創っていく。
そのなかで一つでもうまくいかない事があると、其れは演奏会の結果に直接跳ね返ってくる。
そうした「追求された一体感・音楽・時間」が演奏会の大いなる抽象目的であり、このベースが「表の具体結果」に繋がるのではないかと思うのである。



そして、特筆すべきは、「音を外した」「和声が合わない」などとした物理的現象での失敗は、その殆どが音楽の結果を左右されない小さな現象であり、しかしその事象は実は大いなる「抽象目的」に絶大なる影響を受けている現実である。

音を外す事がまずいのではない。
「音を外してしまった事のみにしか着眼出来ない感性」
が問題なのだ。



読み返すとあまり纏まりがない。。。
本題材は今後も折を見て執筆しようと思う。
呼吸と指揮
呼吸(Breath)と指揮は密接な関係がある。
言い換えると、指揮をする上でBreathは重要な技法の一つだ。
Tempoを与える場合、Nuanceを伝える場合、ザッツを取る場合、緊張させる場合など、腕を動かす「所謂指揮法」と同じ、若しくは其れ以上に重要なファクターであると云えよう。
管楽器はBreathをしないとたちまち音がでない。当たり前の話だ。
弦楽器もBreathでいくらでも合わせられる。
管楽器のテクニックとして、弦楽器の弓同様ブレスの際に生ずる肩の動きでザッツを見極める方法もある。
打楽器も管楽器の其れを見てザッツが取れる。

指揮者の中には、そうした「楽器奏法上のテクニック」を理解せずに、Breathを摂らない指揮者も多いが、斎藤氏の「指揮法教程」に匹敵、否、大きく超える技術としてこの「Breathによる指揮」は有効な手段である。
指揮者を志すものが必ず学ばなくてはならない技術だと思う。

最近管楽器出身の指揮者が増えている。(かく云う私も管楽器出身であるが)
そうした背景にこの「呼吸による指揮」を自然と体現している指揮者はある程度居る。
が、実は管楽器奏法としての「呼吸法」と指揮者の其れは、似て非なるものである。
何故なら、管楽器奏者は演奏前に必ず息を吸わなければならないが、指揮者はそうではない。
では、指揮者のBreathはどう利用したらよいのだろうか。

指揮者は音楽を視覚的に表現していく。
その場の空気や色なども利用するし、勿論腕の動きや表情などは当然の事だ。
そうした「表現方法の多彩さ」で云えば、どんな楽器にも敵わないのかも知れない。
そうした中、むやみやたらにその引き出しを開けて多用するのは私は好まない。
意図的に多くの情報を与えることはあるが、其れも常に計算された事である。
そう捉えると、呼吸も「思う音を引き出すための方法」であると思う。
効果的な場面でのBreathは素晴らしい効果を得られるし、思いも依らない効果も期待出来る。

そう、「効果的な場面」では、だ。
多用はBreath効果を一般的にしてしまい、効果を減らしてしまうことになりかねない。
そのさじ加減は非常に微妙だ。
大きな流れでの呼吸、細かいパッセージでの呼吸。
あらゆる場面で呼吸がもたらす効果は望めるが、むやみやたらに呼吸を使うことは望ましくないと、私は考えている。
そういう部分で云うとデュナーミクと似ている。
デュナーミクも多用すれば「纏まりのない音楽」になりかねない。
ブレスも出し過ぎると「曖昧な表現が殺される」事になる。
中間的表現を利用したい時に、極端なブレスは奏者の呼吸を止める。
客席のニュアンスを制限する。
そういう危険性も、Breathにはある。

何れにせよ、効果的な呼吸を計算して利用することができるようになると、また音楽が深まると、私は思うのである。
これから指揮を勉強する方々には、是非その醍醐味を先人に学んで頂きたいと、私は思うのである。
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