多角性と専門性の葛藤

クラシック界だけではなく、最近若手の作曲家、エンジニアの方々の頑張りというか、感性というか、本当に素晴らしいと思う。

 

あるレコード会社のディレクターをやっていた友人が話していたが、「J-POPは90年代で終わっている。最近目新しい楽曲を耳にすることはないし、昔の良い曲を使いまわしているだけだ。歌手にしてもEQにせよ歌い方にせよ、単にトレンドを追いかけて聞き手を麻痺させているだけだ。」というような話をしていた。

 

しかし、10年代に突入し、ソフトウェアも以前の高価な音源ではなく一般的に手の届くハイクオリティなソフトウェア音源も簡単に手に入るようになったおかげで、今まで眠っていた人がどんどん掘り起こされて、インターネット経由で発信出来ている。

その分多種多様な音楽を簡単に聞くことが出来るようになり、一極化の方向ではなく多極化の方向にシフトしてきている。

かくいう自分も「多極化の中にいるコアな存在」でありたいと思っているんだけど、その価値観は多分音楽に留まらない。

ITエンジニアもそうだが、「専門分野がとても強い」ではこれだけ各分野の多極化が進んでいる現代では商業カルテルのような「申し合わせ」がないと食べていけない。(それさえもあと数十年のうちに淘汰されてしまうかもしれない)

先日、「作曲家は指揮を振るな」のような書き込みをして炎上(笑)したが、専門性の付加価値としてのそれはある種の「コアな存在」になりえるのかもしれない。

 

ただ、指揮にも専門性が存在するので、ちゃんと指揮ができる最低限の技術はマスターして欲しいと思う。

芸術性を追求する(飢え死にしようとも)ベクトル上では、ベクトルの推進性を重要視する方向に流れがちだが、音楽表現というベクトル(そんなものがあるのかは分からないが)から見るに、指揮者だろうが作曲家だろうが演奏家だろうがエンジニアだろうが聴衆だろうが、前提条件は違えど同じ方向または同じ空間世界を目指しているという点では、人間性をも含めて多角的に追求すべきなのかもしれない。

 

でも、、、

 

それじゃアイデンティティはなに?となる。

 

自分でも時々本当に迷う。

ということで、motionを買ってみました。(笑)

何故良い音楽を聴くことが演奏技術を向上させるのか。(「絶対音感」分析からの考察)
先日、私のFacebookのTimelineに流れてきた記事。
とても共感を得ました。

たくき よしみつ(鐸木能光)さんのサイト
「タヌパックスタジオ本館」
のコンテンツにある
あなたの音感は何型か? 〜『絶対音感』の誤解

こちらのコンテンツです。
※事前にたくき氏には本執筆の了解と出典、引用をご許可いただいております。
※引用コンテンツにある内容は記載を省きます。少々読み応えがある内容ですが、是非一読されると良いと思います。
※執筆では「絶対音感」とは何かというテーマから始まり、その有効性や分類を論理的に解説されています。

さて、
A=440Hz
という定義があります。
この定義はローマの定義ですが、当時の各地教会では自らの権威を示すために様々な調律がなされていました。
そのため、オルガニストや合唱隊が各地を移動する際音程感をその地域の調律に合わせる必要があるという困難な状況があり、ローマが調律の共通化を試みました。
しかし、やはり時間が経つと様々な調律がまた発生し、この「調律音の統一」は遅々として進みませんでした。
これは音楽交流が盛んになる近代まで続きました。

現在のピアノの基本調律である「平均律」自体は結構前に存在しました。(5世紀あたりから考え方自体はありました)
これは鍵盤楽器が盛んに演奏される時代に、楽曲ごとに調律を施す必要性を回避するために考案された、いわば「全調性対応の調律」として重宝されました。
転調を自由に行うために、この調律法は非常に役に立ちました。
全ての調性で少しずつずれ感があるため、極端なウルフ(非常に共鳴しない音)を防ぐ事が出来ました。

その後ピタゴラス、中全、キリンベルガーなど有名な調律法が出てきます(調律や音律の話になると長くなるのでここでは割愛します)が、完全な「全調性での純正律」は鍵盤楽器では理論上どうしても実現しませんでした。(そもそも純正律が正解だとは限りませんが。。。)
今の電子楽器の世界でも、(私は感じてしまうのですが)純正のHarmony(特に三度)はあまり実現できていないと認識しています。

例えば、電子オルガン楽器である、ヤマハの「エレクトーン」では、音程の補正はあまり正確でなく、音色(音源)の多彩さなどがウリです。
同メーカーの「ハーモニーディレクター」でさえも、三度はどうしても20秒に1回うねります。(この「20秒に1回」といううねりが私には耐え難いのです)
最近の技術力で工夫はとてもされていますが、どうしても純正の響きは実現できていないと感じます。

さて、この私の感覚は、たくき氏によるところの「移動ド型音感」であることは、たくき氏のコンテンツを読み進めることで容易に理解出来ました。
たくき氏も仰られているように、一般的な絶対音感と称される、「音叉型音感」は私にはあまりありません。
しかし、基準音を与えてもらえば、楽譜を音に変換する能力はあるようです。(スコアを読み進めることでスコア上の音は頭の中で鳴らすことが可能です)
ですので、「固定ド型音感」も備わっている可能性があります。

音楽を表現するにあたり、どのような音感が役に立つかはその人の活動如何だと思います。
私のように指揮者をしている人間は、音叉型音感、しかもその記憶が平均律だと、オーケストラで楽に豊かな響きを聞き分けることは難しいでしょう。
何故なら、単楽器の音色でさえ、その音色を構成する音は響音の重なりです。
器楽音などの響きの中には響音である倍音が構成され、その微妙な重なり方が音色を構成します。
ですので、音叉型音感で平均律音叉を持ってしまっていると、音の美しさを感じることは皆無でしょう。
何故なら、倍音の構成音は平均律ではありません。(純正律でもありませんが)
倍音の共鳴をどのように捉えるか。鳴っている音の数をどれだけ聞き分けられるかで、豊かな音色をイメージし、オーケストレーションすことが出来ると思います。

指揮者がピアノを弾けることは悪いことではないと思いますが、音叉型絶対音感を持っていることは絶対に避けるべきです。
まぁ、a=440Hzの音叉を持ってしまうとピリオド音楽は出来ないでしょう。
ピアノも、演奏技術が高いことより調律技術が高いほうが良いでしょう。
(脱線しますが、調律師の方も指定の調律を実施できる方は少ない気がします)
残念ながら私はピアノの調律はまだ出来ませんが、それでもあまり問題と思っていません。
何故なら、基準音さえ貰えば、その音程での音律や和声は頭の中で鳴るからです。
たくき氏の分析による絶対音感分類はこの点を説明する上で非常に有効と感じました。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

さて、前出のたくき氏の言葉を引用すると、

教条主義的で無味乾燥なピアノ教室に長いこと通わせて、形の上ではピアノが弾けるようになったという子供よりも、楽器を何も習わせなくても、幼い頃からいろいろなジャンルの名曲を数多く聴いて育った子供のほうが、はるかに音楽的な素養は豊かになるだろう。そこで培われた「生きた音感」「自由な相対音感」こそ、成長してからの真の宝物になるはずだ。

これは私も非常に同感だと感じました。
音感とは、必要とする生きた音感を音楽表現の中で培うべきものであると思うのです。
楽団で音程が悪い方はプロ・アマ問わずにいらっしゃいます。
その音程感で演奏を実施しても、響音による「天国の音楽」(故 玉木宏樹氏)は実現できません。
そういう音程感での演奏が目の前に現れた際、「音程が高い」「音程が低い」という表現での奏者への指摘は極力しないようにしています。
「芯の音程」(チューナーで指し示される音程/一番大きな音程)を変更しても、倍音が変化しなければ響きはあまり良くなりません。
芯の音の周波数を変更するだけでは充分ではありません。
なので、出来るだけ声、歌(音色がある音/数値ではなく音そのもの)で、音程感の矯正を御願いします。
高い低いの音程修正は、楽器の演奏力が高ければ高いほど簡単に修正できますが、音楽は進行するものですので、考えている音程を修正しない限り同じ音程の間違いが発生します。

そうした「音程(すなわち音色)への感受性」を育てるのは、そうした「良い音程感」を経験することが唯一の方法ではないかと思います。
それも、出来るだけ生音で聴くことが重要です。

スピーカーの音は、特性周波数にどうしても隔たりがあります。
音の感受性を養うためには、非常に微細な周波数を感じることをしなければなりません。
(オーディオに詳しい方がよく「このスピーカーとこのアンプとこのシールドで組み合わせると豊かな音になる」などと言いますが、それほど「音色の再現」とは難しいものです。)
人間の耳の構造は非常に有能で、マイクが拾う音、スピーカーが出す音以上の細かい音を感じます。
耳に何らかの障害を持っている方でなければ、この聴力は個体差はあれ、マイクやスピーカーのそれとは比較になりません。
この聴力を鍛える方法論として、「絶対音感」というものが存在するのであれば、それは「音叉を頭の中に持つ」ことではないと思います。

人間の耳は、いわばアンテナです。
ここには様々な電波(音)が受信されています。
これをモジュレート(モデリング)し、理解するのがチューナー(脳)です。
よって、耳に聞こえている音信号を脳で理解し、その音を感じています。
ですので、俗にいう「音感」とは
・耳による音の受信能力
・脳による音の分析能力
となると思います。

音楽家は、この他に、再生するアンプとスピーカーの機能として、また良い再生能力を担保する補正能力として、
○脳で良い音をイメージする能力
○イメージした音を表現する能力
○表現した音を評価し修正する能力
が必要だと思います。

そう、インプットに対しアウトプットがある事が重要です。
そして、人間の表現する音楽は、「脳」という高機能のシステムを用いて、他者の追従を許さないほどの繊細な再生能力、想像(創造)能力を発揮するものであると思います。

(日本の一般的な)音楽(器楽・声楽)教育では、上記「イメージした音を表現する能力」をとてもよく教えてくれます。
ですが、芸術は「脳で良い音をイメージする能力」が必要不可欠だと思います。いや、とても重要な部分です。
そのためには「脳による音の分析能力」は必須です。
この分析を間違えると、良い音楽に結びつきません。

「脳で良い音をイメージする能力」を育むために、もっともっと良い音を生で聞き、感じることが大切だと思います。
理論はその裏付けでしかありませんので、本来は必要ないのかなとも思います。
但し、人間には限りある生命がありますので、出来るだけ時間を短縮するために理論は有効ではないかと思います。
良い音楽を多くの人が表現できること、その地道な活動が、音楽界を活性化させて素晴らしい文化に育つと確信しています。

理論がなかった時代のほうが、もしかしたらよい音楽があふれていたのかもしれませんね。。。

さぁ、そして大きな疑問えす。
「良い音楽」とは一体何なのでしょうか。
なぜ「勉強」するのか
 音楽を行ううえで「感性」は非常に大切な構造物のひとつです。
感性を磨くことは即ちその人の音楽性や人生観を磨くと言うことであり、その逆も然りと考えます。
人生における経験はそのまま何の媒介も要さずに音楽表現として反映できます。
過去の名だたる作曲家の楽曲や指揮者演奏家の演奏はこうした「人生観」から形成されているといっても過言ではありません。
「温故知新」と申しますが、そうした過去の偉大なる遺産を再現するのが「クラシック音楽の世界」であると筆者は考えています。

こうした考えを深めていくと、先ほどの必要充分条件となる「人生観」言い換えると「生き方や背景」とその「音楽」は互いに同一の熟成を得ていると考えられますので、感覚としての「音楽」を感覚的に解釈する能力を培う為には、その双璧をなす「人生観」を学ぶことでより補完できます。
過去の作曲家は非常に多くの人数が居ますが、そうなると自分の人生ではその何人の音楽を理解し、自分の感性を融合させ、より進化させた藝術として再現できるのでしょうか。何十、何百の音楽家の人生を感性だけのベクトルで再現させることは非常に困難であり、これこそ「特殊能力」であると言えます。
そして少なくとも人類の歴史上そのような神がかり的な能力を持つ方はいらっしゃらなかったかと思います。
ではなぜ現代の音楽家が再現藝術における進化を成し遂げているか。

それは多方面のベクトルに対し精力的にアンテナを伸ばし、少しでも再現力を強固にする努力を惜しまずに続けた結果だと思います。
その上で「勉強」は非常に大切な要素であり、感覚などの「熟成させる画一的な方法が未だ解明されていない」ベクトルを霊感商法的手法で研ぎ澄まそうとしてもその成就は得がたい事への強力な補完方法であると考えます。

感性を育てようとしている音楽家は非常に多いですが、その多くが「他人の音楽を聴き刺激を受ける」事を主たる方法論に据えているようです。
しかし、特にクラシックなどの再現藝術におけるその方法論は一長一短があります。
過去の音楽はその歴史が古ければ古いほど再現された数も多くなる傾向があります。
であるなら、再現された「別の人間の感性」を崇拝して模倣することは、自らの音楽を成長させる為に利益になり同時に害になります。
害は阻害できません。何故なら毒は毒だからです。
摂取してはならないものは何にも置き換えることがなく「摂取すべきではない」のです。
では「利益」はどうか。
これは摂取すべきです。
薬の世界では「ジェネリック」が流行しています。
ジェネリックとは「薬品の組成が同等の後発医薬品」です。
言い換えると「内容が同じ別の利益享受方法」です。
過去の演奏を聞くと言う行為は非常に簡単で楽な方法ですが、害を阻害できない弊害があります。
過去の演奏を耳にすることでその感性が自分の感性を変化させ、というより自分の感性にコピーされ、既に再現された効果を自らの感性におけるアイデアと勘違いしやすく、また「正解である」と勘違いしてしまいます。
これは是非避けなければなりません。
「利益」は「感性を育てる刺激」です。
耳から入る情報は直接的に脳に伝達され理論的解釈を経ずに感性の領域に届きます。(理論的な聞き方をしない場合)
元々自分の感性がある(勿論誰にも持ち得るものです)場合、その感性を刺激し進化させることが出来る要素を持っています。
ただし、その感性がコピーされてしまい自らの感性を他者の感性に置き換えてしまう弊害もあります。(これが「害」です)

では「他者の音楽を聴く」という効果の「利益」だけを得る方法は何か。

私は3つ提唱します。

・録音を繰り返し聞かない(自らの演奏は除く)>生演奏のみを聞く
・聞く際は理論的に聞く(つまらないかもしれませんが)>感性への直接アプローチを少なくする
・他者の演奏を聞かずにその分勉強する

「勉強」と書くととても面倒で億劫なものであると思われがちですが、将にその通りです。
だからこそ「弊害」が少ないのです。
言い換えると「勉強」の弊害は「面倒で億劫」です。
しかし、良い藝術を自分の中で醸成させる為には貪欲であるべきですので、まずは「醸成」させる方向にベクトルを向かせなくてはなりません。
少なくとも「退化」する方向へは決して舵を切ってはなりません。
そう考えると「楽で簡単」な方法には「禁忌」が存在するのです。
勿論「多角的にベクトルを保持し生涯で可能な成長幅を存分に増やす」意味では「毒のある方法」もまた「必要」ではあるでしょう。
ですので、出来るだけ毒を避けて取り入れる方法が良いのです。
感性のすり替えを防ぐ為には「反復」を避ける必要があります。
反復の最たるものが「ヘッドフォンで繰り返し聞く」事です。
これは害部分を助長することはあれど、感性を進化させることは殆どないのではないかと予想します。
危険です。
私は出来るだけ避けるようにしています。

そして(やっと本題に入りますが)「勉強」の弊害は「直接音楽に関係しない」内容です。
ですが弊害はあります。
人間やる気になるには大変な覚悟が必要です。
生きていく為の様々なことがある人生で音楽に大きく時間を費やせるのはごく一部の人でしょう。
ですが、だからと言って「やらない」手はありません。
害を出来るだけ避けて、トライするべきです。
方法論はこれもまた様々なものが提唱されています。
どれか選別しやってみるべきでしょう。
その経験も音楽の感性、すなわち人生観を育ててくれる大きな経験になると思われます。

私は指揮者ですので、感覚と理論を同時に考えることに慣れています。
なぜ慣れているかは別に取り上げますが、生きている中でもこうした考え方は常に私を支配していると感じます。
その中で私が手助けを行えることと言えば「勉強方法の提案」ではないかと思います。
「簡単感」を煽り、意欲を持っていただき一度「勉強の醍醐味」を味わってもらうと、勉強における「害」を感じなくなっていくのではないかと考えるからです。

実際私がそうでした。

例を出しますが、私は指揮者なのに昔は「楽譜の読み替え」が非常に苦手でした。
和声分析・記譜されている調の実音変換・調性判別などは本当に不得手で、避けていました。
感覚だけで音楽を語っていた時代が私にも多分にあり、しかしそれを指摘され勇気を振り絞って「面倒・億劫」の害を受けながらトライしてみると、本当に「新しい感性」がどんどん育ち、今まで避けていた時期が本当に勿体無く感じています。
その経験からするに、やはり「最初の一歩」がどれだけ大変かは自明ですが、これをお手伝いできれば自分にとっても更に感性を育てることが出来るなと感じています。


本サイトでは今後こうしたセミナー形式の勉強会を開催していく案内を行ってまいります。
私も、他の方も、成長する為に集うものです。
導入部は私が経験上お教えすることが多いかと思いますが、その後は対等の立場で藝術を追及できればと思っています。
表現技術向上のプロセス

表現技術向上のプロセスにはいくつか存在することを自認していた。表現の素材を認識する「発想力」、その素材を実際の音楽に変換する「表現力」、更にその表現を実現化する「演奏力」。この過程が表現技術プロセスの機軸だと認識していた。勿論今でもこの考え方は変わらないが、その要素の子細に感覚ずれや一般化が起きていたことを認識し始めた。

一般的に演奏技術は「訓練」により醸成されると認識されているだろう。全ての演奏家達は並外れた演奏訓練を経てその音楽表現の懐を深め、これを自由に出し入れすることで表現力を得、自らの発想を実現している道筋ではないかと筆者は考えていました。しかし、演奏技術の醸成に一番大切なことは、実現すべき素材の明確な認知であり、その認知が強固なものであればあるほどその実現へ向けたプロセスは極端な「段抜かし」を実現できるのだということをある本で認識いたしました。

確かに、「初めから出来る」人への説明がつきません。「訓練」によるものが演奏技術の根幹であるとなると、個体差は存在しないはずなんです。何故なら、生まれてきてその瞬間に何か訓練された状態で生を受けることはありえないのです。技術力を既に携えて生まれてくる人間は(現在のところ)居ません。
それぞれの経験などの記憶により、何かの過程における「差」が個体差に繋がり、初期習熟度や訓練上達度の差を生み出していることは間違いないのですが、その差も「訓練由来」ではないのです。
訓練由来と仮定し、その実戦によりある程度の結果が出ていることもあるので、今現在の「確かな結果に基づく方法論」として「訓練」と結びつけることは容易ですし分かりやすい。特に日本人の文化には溶け込みやすいものです。

しかしながら、上記では説明できない事が多すぎます。
例えば、呼吸を利用する演奏法を持つ楽器でよく話題に上るのが「腹式呼吸」です。
この「腹式呼吸」という説明に「横隔膜を利用して呼吸する」という話がよく出てきますが、横隔膜はそれを制御する神経は「自律神経」に100%依存しており、非自律神経系統ではコントロールできません。「心臓を動かす」「声帯を動かす」と同義です。意識下でのコントロールは絶対に出来ません。(医学的に立証されています)
されど、「腹式呼吸」という呼吸法は「横隔膜で呼吸する」と言われ続けています。おかしな話です。コントロールできない筋肉をコントロールするように説明されます。
具体的には肋間筋のコントロールにより無意識下で横隔膜の運動を「強請」しているのですが、その話には一切触れません。
これは「特別な筋肉を使う」という、今まで感覚としてなかった事象(コントロール不可能な事象なので当然ですが)を意識することでトレーニングの必要性を裏付ける役目や、特殊筋肉の育成を謳いその達成感覚を誤認することで「出来た感」に結びつける一般化を狙った「方便」ではないかと、筆者は思います。

では何が必要か。

その本の言葉を私なりに一言で説明すると「反射」となります。
そうです。反射神経です。

人間は「赤信号」を見ると反射的に止まります。
悲鳴が聞こえると身構えます。
おなかが空くとご飯を食べます。
熱いものに触ると手を引きます。
痛いと涙が出ます。
広義狭義含め、「反射」は人間の根幹をなします。
人間は反射なくして生存できません。
その「反射」に音楽表現のベクトルを組み込むことが技術力の醸成に一番適しているという話です。

なるほど。反射。
例えば、上達した演奏家は楽器を構えて音を出そうとすると勝手に音が出ます。
上腕二等筋をどう動かそうか、肋間筋をどこまで緊張させようか、声帯の振動数を1329Hzに振動させるために喉のどの筋肉を緊張させてどの筋肉を弛緩させるかなど、誰も考えません。
もし考えているとしたら、それは必ずしも直接音を実現させる筋肉をシームレスにコントロールしているということではないと思います。
総合するに、筋肉を適切に動かす「反射」があり、考えた結果を実現するための所作は体が勝手に実践してくれることなのだということです。
その際に必要な筋肉の醸成は、繰り返し実現希望の結果を実現し続けるしか方法が無く、(コンセントレーションという意味での訓練的要素は別として)そのものを要素に分解して個々に鍛え上げることは出来ないと結論し、これが「反射」に堪え得る身体になったときに、体内での反射としての一般化が完了してその神経回路が開く状態になる、これが「上達」であるとするなら、とても合点がいきます。

指揮者や演奏家が楽譜を読むのも実は「反射」です。
音符が並んだ「記号群」を演奏に変換する際、「この音は何の音なのでどこを押さえてどうする」などを逐次考えてしまうと、早いパッセージなど演奏できなくなります。
一般化することで、すなわち「反射神経」に帰属させることで、いとも簡単に演奏を行うのです。
指揮者がスコアを見て音楽が脳内で構築される過程で、「この音譜がこの楽器で記載されているときはこう鳴る」という反射です。
「音程差がこうある際の和声の響きはこう」という反射です。
「スコア上にあるこの音楽はこう振る」という反射です。
反射は記憶から発生し、常識化で固定化されます。
新しい反射は、「新しい情報」と「今までの反射素材」の組み合わせで発生する新しい「記憶」です。

新しい表現を行う際に必要な要素は、「目的とする表現の定義」と「過去に記憶した反射」と「一般化」であることは明確です。
この構造を考えると、芸術性の関与する部分は「目的とする表現の定義」であるかと思います。
しかし、他の2つを無視すると何も出来ない。実現しない。
これが「訓練の甘い蜜」なのでしょうね。

アマチュア指揮者・演奏家のためのカンファレンス開催のお知らせ
<告知> 

★★指揮者・演奏家のためのカンファレンス開催のお知らせ★★

○指揮者・演奏家の観点より「楽曲アナリーゼ」「奏法」「和声学」「歴史」などのテーマで行うカンファレンスです。
○アマチュアで楽器を演奏する方のための本格的な、そして楽しいカンファレンスです。
○音楽教室で習っている方も、楽団で演奏される方も、指揮を志す方も、気軽に受講出来ます。
○ご要望でプロ演奏家やプロ指揮者をお呼びして交流会も開催します。
○一般の音楽講習会・指揮者講習会に参加される前に、気軽に受けられるものです。
○指揮のカンファレンスも行います。

独学で楽器を習っている方、先生に就いているがまだまだ初心者の域を脱せずに苦労されている方、指揮者を志す学生さん、アマチュア楽団で指揮をされている方、音楽大学で音楽を学ばれている方、全てが参加対象です。
元来、音楽知識の大部分は「誰でも学べるもの」です。
特に技術力にとらわれない、動機の部分を育成しましょう。
そのためには、ある種の刺激が必要であり、または人生経験が必要です。
本講座は立場や技術力を分け隔て無く、音楽を愛する者のために広く門戸を開けたカンファレンスになります。
刺激が詰まった、普段の活動では得られないような濃い内容です。
疑問に思っているが今更恥ずかしくて聴けないようなことも聴けますよ。
是非一度ご参加下さい。


費用:参加費3000円/日(1ドリンク+おつまみ付き、ドリンク追加500-/s)
場所:都内港区六本木周辺某所(詳細はお申し込み時にご連絡します)
開催日時:【月一開催】第四土曜日夜中0時〜6時まで
講師:セミプロ・プロ指揮者、演奏家、海外オケ音楽監督等
参加申込:お名前、参加日、あれば題材希望楽曲を明記の上、kanazawa@global-it21.comまでメールをしてください。
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