Symphonie Nr. 1 D-dur "Der Titan"/Gustav Mahler
この曲は、国内でも海外でも特に良く演奏される曲である。私もマーラーを感じるにあたり、必ずこの「第一番」に戻る。
実は、20代の頃は意識的にマーラーという作曲家の音楽を聴かなかった。
皆「マーラー」「マーラー」というので、ミーハーな雰囲気が多々あったためだ。
私がマーラーに出逢ったのは、かの有名な「サントリー烏龍茶」のCMでの「大地の歌」である。
この曲を良く聴いてみたいと感じ、CDを購入したのがきっかけだ。
マスメディアなど、大嫌いだと豪語していた私であったが、密かに影響は受けるのだろう。その出逢いが現在のマーラー感を形成したのであるから不思議である。

マーラーは指揮者として賛否両論の先鋭的活動を精力的に行ってきている。そのスピリッツは実に彼の作品に如実に伺える。
彼自身が執筆した楽曲は、実に数々の改稿が為される。彼の中に「完成」という文字は存在し得なかったのであろう。
それだけ、彼の人生において「苦悩」「迷い」「失意」「挫折」が多かったように思う。人間の本質を彼は素直に表現したという点では、実はとても健やかに生き抜いたのかも知れない。

この楽曲は最初交響詩的に書かれ、2部構成5楽章で作曲され、初演された。
マーラー自身の手で初演された演奏は不評に終わり、その後マーラーが手がける演奏の度に改稿を加えている。(ちなみに初版は消滅している)
現在有名且つよく演奏される阪は、マーラー協会が策定した全曲集に依るものである。
有名な版に、第二版(ワイマール稿/2部5楽章交響詩形式)、第3版(ベルリン稿/4楽章交響曲形式)、マーラー協会版(ユニヴァーサル社改稿/現在の有名な形式)などがあるが、その内容変化や細かい改版で実際に存在する多くの稿が入り乱れている事もしばしば発生し、混乱の元になっているようである。

第一楽章(Langsam, Schleppend, wie ein Naturlaut - Im Anfang sehr gemachlich)では、微弱音の弦楽から荘厳に始まる音楽は、マーラーの中にある極端な対比的精神構造が如実に伺える印象的な部分である。「春、そして終わることなく」と、第二版であるワイマール稿で付けられた楽章副題とは、私は少々異質のものを感じてならない。それは、和声構造とも云え、対位法的技巧とも云え、しかし、ただ「雰囲気」とも云える。具体的な論理解説は諸氏にお任せするとして、私の感じるこの楽章のイメージは、どうしても「生死のテーマ」と捉えてしまう。
マーラー自身、「この楽曲の事を聴衆は理解していない」と初演後に言明しているように、マーラー自身が初めて交響曲として執筆したこの1番で、若しくはその後彼が手がける全ての楽曲の根幹になるテーマを縫い込んでいたのかも知れない。
第一楽章で提示される第1主題は4度の下降音型である。私が特に思うのは、この「下降音型」という特殊な呈示が何を意図するのかが、この楽曲の最大にして難解な疑問である。ちなみにこの音型は全曲を通しての命題として扱われる。
この楽章は自由に表現されたソナタ形式として理解されているが、マーラー自身はやはり当初「型にはめたくなかった」ために交響詩の形式で初演しているのではないだろうか。
そうした意図からも、今後のマーラーの根幹であるように思えてやまない。

第二楽章(Kraftig bewegt, doch nicht zu schnell)では、荘厳な3拍子scherzoが楽章全体を通して奏される。低音弦の重厚な響きの中に高音弦がアカデミックなテーマを奏する主題から展開し、楽章を通して明るく展開しているように思われる。が、ここでも私はどうしても「暗の予告」として感じてしまうのは何故だろうか。
私が思うに、最後の和声がそう感じさせるのではないかと思う。初版にて交響詩として書かれた流れとして、実は現第3楽章の予言的和声であったと推測されるが、当然各楽章を独立させるとなれば、これだけ稿を重ねたマーラーは、きっとこの和声にも着眼したに違いない。そう考えると、ここでもマーラーの「飽くなき挑戦」が感じられる。実際第1楽章における「ソナタ形式の前衛的展開」もこの類の感性と捉えることも出来る。そうなると、交響詩としていた最後の版である第2版での大段落である第一部の括りとして、次に登場する第3楽章への経過として見る考え方もあるだろう。
何れにせよ、まるでBeetohvenへの回帰を彷彿とさせるこのThemeだが、実はマーラーの古典への挑戦が伺えると感じるのは私だけであろうか。
なお、第2版ではこの楽章は第二部第3楽章「順風に帆を上げて」とされる。ちなみに第2版第一部第2楽章「花の章」は第3版にて削除されている。

第三楽章(Feierlich und gemessen, ohne zu schleppen)では、童謡「フレール・ジャック」と『さすらう若人の歌』第4曲「彼女の青い眼が」が用いられている。全体的なイメージは、第二版で命題されたように「座礁、カロ風の葬送行進曲」そのものであり、第一部「青春の日々から、若さ、結実、苦悩のことなど」を受けた第二部「人間喜劇」の冒頭に持ってきたものである。
本曲の理解を進める上で、第二版で用いられた部構成を楽曲の大段落とする考え方が主流であるが、私は敢えてその分析方法は間違っているのではないかと感じている。
それを裏付けるものとして、初版では当初部の切れ目は第二楽章と第三楽章の間にあった。それが第二版では第三楽章と第四楽章の間に位置し、マーラー協会稿で云うところの第二楽章は、実は部をまたいでいるのである。
また、先に論じた第二楽章の終和声の問題、また本楽章が第四楽章にattacaで引き継がれる構成などを鑑みるに、やはり本交響曲は元の「一つの交響詩」それも、楽章を経て結論に至る形式である事は、否めない事実のように感じてならない。
更に、この楽曲が「交響曲第一番」として演奏される前に彼の交響曲第二番を初演している経緯も含め、実は彼の交響曲は「全て繋がった一連の音楽群である」ように感じる。

第四楽章(Sturmisch bewegt)では、第三楽章の最弱音からattacaで引き継がれた第一音目はPairCymbalの強音。このcymbalを聞けば聞くほど、今までの楽章を全て肯定し、その上でその内なる感情を深層に打ち込んだように思われる。
実は、この楽章ではこの時点でのマーラーの回答を表現し、結論を論じていると思うのだが、本当の本当は、此はマーラーの自身へのFakeであったのかと思う。
コーダでのホルンの立奏指示に至っては、マーラーの精一杯の見栄であり、その後に訪れる本格的な人生の苦悩に恐怖し、まるで小動物が威嚇の鰓を広げるような、そんな悲しき感情に満たされる。
しかしながら、当時の管弦楽法に見られない、四管編成(第三版で三管編成から拡充)での壮大な楽曲は、マーラー評価として絶大なる功績を残した作品である。
マーラー自身の遥か深い苦悩を表現した最初の楽曲として、彼の自伝となるカンバスを形成した重要な楽曲であったことに異存は全くない。

さて、上記で論じているように、マーラーは自らの苦悩を真正面から捉え、正直に怯えてそれを究極の「素直」で表現しているように感じる部分が他にもある。
そう、「巨人」という副題である。
彼自身が友人に宛てた手紙の中で、「この副題は誤解を招くおそれがある。」と書いているとおり、彼の予言通り彼の本質を見誤る傾向があるように思われる。
彼は自らの苦悩に「打ち勝ちたく」、彼の苦悩を表現したこの楽曲を強く、強くしたかった。たまたま彼が目にしていた書物で「巨人」という文字があり、副題を付ける機会にそうした「目に入ってきた強そうなもの」をつい付けてしまったのではないだろうか。


私は今までこの「マーラー」を論じることは控えてきた。何故なら私ごときがマーラーを論ずる前に、より優れた方が深く論じていらっしゃるからだ。
では、その論を全く無視し、素直に私の思う「最小限の情報のみでの素直な解釈」を記載することは、私のマーラーに対する敬意であり、彼の精神である「飽くなき苦悩への挑戦」を学ぶ方法ではないかと考え、執筆した。
諸説と全く異なるかも知れないし、勿論私と近い解釈をされている氏もいらっしゃるかも知れない。しかしながら、そうした論評を私は一切廃して自らの感性のみで執筆した事をご理解頂きたい。
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