対処療法
私は専門が管楽器ですので、弦打に関しては門外漢的扱いなのですが、一応それなりに一通り勉強してきています。
その上で楽器全般の奏者に云える事は、昨今の奏者は実に「対処療法」が多いという事です。
アマチュアの世界であれば、勿論全ての楽曲を自在に表現出来る必要はありません。しかしながら、折角音楽をするのですから、出来るだけ持てるイメージやエネルギーを音に変換し、表現して欲しいと思うのです。

特に日本の音楽教育は「対処療法」が酷く、辟易します。
楽曲が与えられ、その技巧をまずひたすら習得してから「この音楽はどうだこうだ」と云えるようになる。「まず弾けるようになってからものを云え」のような文化が横行している。
私が考えるに、これはアマチュア音楽家達への侮辱であり、世の中に居る全ての音楽愛好家への侮辱なのではないかと思うのです。
音楽を生業としている方々は、その人生の多くを音楽表現技巧の習得に充てられます。勿論その中で人間的な奥深さというか、表現の源になる経験だったり知識だったりも必要としますが、その多く乃至全てを音楽に関連づける事が出来ます。
アマチュア音楽家の場合、音楽という要素以外に色々な要素を人生に持っています。ある意味音楽表現の引き出しは、こうした方々の方が多いのかも知れません。
しかし技術においては、前者に敵いません。

音楽を探究するベクトルは、元来「このような感情等を音楽で表現出来ないか」という願望から為すべきなのだと思うのです。
内から湧き出でるエネルギーを音楽に変換して伝える事こそ、実は芸術の神髄なのだと私は感じています。
にもかかわらず、音楽教育の現場ではやれパッセージだとかやれ指回りだとかやれ高音だとか。
特に管楽器の其れは本当に酷いものだと思います。

本来、その人が表現する音を誰も否定出来ません。
発音した人のものですがら。
しかしながら、その音を発すれば必ず誰かの耳に届きます。
ここに表現や思想、感情、歴史、未来など色々なファクターを盛り込む事で「音楽」として聴衆を得、伝わるのだと思うのです。
であるならそのベクトルは普遍であり、逆ベクトルは存在しない。
幼少の頃からピアノを与えられ、スパルタで教育する事で得られる名声など、私にしてみたら全く芸術ではない。寧ろ技術職である。
私は技術で出す音楽は、限りなく打ち込み音楽に近いのだと思うのです。

ベートーベンは「技術によって作曲が成り立つ事を証明した」というような表現をされる場合がありますが、これは当然「ベートーベンが秘めていた内なる音楽へのパワー」があってこそ成し遂げられた事なのです。
だからこそ、音楽が技術とか訓練とかそういう言葉に無縁だった頃だからこそ、この証明は大きな意味を持つのです。
「音楽の一般化」
これを履き違えてしまっているのが、実は現代音楽教育なのだと、思うのです。

多くの奏者が突き当たる部分、
「何を表現したいのか」
このファクターに一番時間を掛けるべきだし、この疑問の解決無くして音楽は成立しないと思うのです。
であるなら、出来るだけ技術は包括的であり、基礎的であるべき。
なのに、楽曲を目の前にした奏者が何故かその楽曲のスケールを練習しない。
和声のTDSTさえ確認しない。
これは、そういう癖を身につけさせなかった教育者の問題も大きいと思うのです。

我々は、こうした「日本的音楽教育要領」を潔く捨て去り、本来の音楽形成を援助すべきだと、強く思うのです。
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