エクトール・ベルリオーズ/幻想交響曲(Symphonie Fantastique)
私が幻想交響曲と出会ったのは、かれこれ20余年前、中学校の吹奏楽部での定期演奏会曲目であった(当時は”第4楽章「断頭台への行進」 Marche au supplice”のみの演奏)。私は当時Euphoniumnという楽器をやっていたのだが、重いピストンでVC.のアルペジオをやった思い出がある。
先日記憶を頼りにその譜面を思い出してやってみたのだが、幼少の頃の記憶というのは本当に忘れないもので、未だに暗譜でできてしまう。
今考えると、中学生ながら凄まじい楽曲を経験していたのだと痛感。よくよく考えてみると、小学校の時に既にヴェルディの「アイーダ」やワーグナーの「ローエングリン」など、管弦楽曲に多く触れていた気がする。


さて、本題に移るとして、表題「幻想交響曲」はベルリオーズの代表作としてあまりにも有名であり、多くの演奏家が取り組む楽曲である。
幻想交響曲のスケッチには、
「ある若い芸術家が恋に破れこの世に疲れはてて、阿片を飲んで死のうとする。しかし毒物の量は彼を死なせるに足りなかったために、彼は深い眠りにおち、一連の夢を見る。その夢のなかで、芸術家の恋の物語がくりかえされ、幻想的で奇怪な解決へと導かれていく」
とある。
ここで出てくる「ある芸術家」はベルリオーズ本人、「恋の相手」が片思いに終わったハイリエット・スミスミソンであることは周知の事である。
この「幻想」は、実は音楽史上初の「標題音楽」とされている説が大勢を占めている。
こうしたベルリオーズの「挑戦」とも云うべき活動で、「ベートーベンの再来」と謂わしめるまでの名声を得たのだと思われる。

私を含み、熱い恋愛を経験したい方は、よい触発になるのではないだろうか。

音楽評価:★★★★☆
クロード・ドビュッシー/交響詩「海」
この楽曲は当時日本の浮世絵が海外に多量に流出し、葛飾北斎の絵画も欧州を中心に散らばった中、作曲者がたまたま見た北斎に衝撃を受け、作曲した標題音楽である。
交響詩としたのは、ドビュッシーがその作曲法において、既存の形式に囚われたくないという想いが滲み出ているように感じる。
この曲は三部構成からなり、「海」の多様な表情を総て表現しようとしている。
また、日本絵画の強い表現力に併せたオーケストレーション、時に細く時に太く、それで居て一貫した力強さを持った音楽に仕上がっている。

ドビュッシーの交響詩三部作とまで賞賛されるこの曲は、弦楽器・管楽器・打楽器の総てが非常に高い技術力を要求され、現代のプレイヤーでも相当苦戦する楽曲である。
特にオーボーとホルンのTuttiによるテーマ(三楽章中盤)、終盤の大合奏(ダブルタクトに転じ、数種類のTempoが交錯する場面)から終曲するまでは、まるで大自然の王者である海(La Mer)の壮大な自叙伝のように表現される。
フランス音楽に属するドビュッシーの作曲の中で、これほど壮大なオーケストレーションを用いた楽曲は他にはない。が、その繊細な技巧は、俗に言われる「ごまかしのTutti」とは全く違う、非常に繊細な大合奏を、しかも複数のTempoが交錯しながらの終結は、「これぞ究極の大合奏」という感がある。

大合奏で有名な楽曲として、今後紹介を予定しているショスタコービッチ作曲の交響曲第五番「革命」、ヒンデミット作曲の交響詩「画家マティス」などが挙げられるが、ある種時代も作曲派も違うベートーベンの交響曲第九番を彷彿とさせるような感覚が働く。

この楽曲を音源またはコンサートで聴くときは、是非ハープとオーボーとホルンの三重奏と、オーケストラという生き物を海に見立てながら聞く大合奏をお楽しみ頂きたい。


楽曲評価:★★★★☆
カール・オルフ/カルミナブラーナ
この楽曲はドイツの近代作曲家で、一般的にはあまり有名ではないが、この「カルミナブラーナ」はファンが多い。
この曲の題材は、南ドイツにある中世の修道院より発見された詩歌集より24曲を抜粋、音楽にした曲だ。
オルフは、当時より音楽教育に携わっており、リコーダーアンサンブルなどに即興の踊りを付け、子供達に音楽を慣れ親しませた手法は現在でも大いに教育の場でその源泉を垣間見る事ができよう。

カルミナブラーナに関して私見を書くなら、この楽曲は短編詩集であるにも拘わらず、その通した内容・音楽性などが一貫し、短編のメッセージと共にその訴える力が楽曲全体に力強く息づくとてもパワフルな曲である。また、歌手の歌い上げる詩には、ユーモアに富みながらも強い風刺など鮮烈な内容も多く、曲調は宗教音楽に近い感覚なのだがそれほど抵抗が無く聞くことが出来る。
重厚なオーケストレーションと希薄な和声、男声の重々しい声にとても明るい管弦楽、そうした対比が聴く者を飽きさせないドラマへと誘う。
特にお気に入りは12曲目「Olim lacus xolueram(焙られた白鳥の歌)」である。テノールが歌い上げる悲愴感漂う楽曲だが、それでいて題材は食卓に上った焙りチキン。焙られた白鳥が自分の今際を嘆く音楽である。人間の感情の、ある意味相反している2つの感情を一度に表現している。
また、18曲目「Circa mea pectore(私の心は溜息に満つ)」はバリトンが強い感嘆を歌い上げるのだが、題材は「感嘆」。本来音にならない感嘆をその心境と共に楽曲に仕上げている。

私はこの曲を生演奏で聴くのが本当に好きで、機会が在ればいそいそと会場に足を運ぶ。
良い音源も多いのだが、是非生演奏を聴いていただきたい。

「カルミナブラーナ」の世界に暫し身を置き、自らのあらゆる感情と対話し、新たな自己を発見できる事は、私の至福でもある。


楽曲評価:★★★★★

参考音源は意図的に掲載いたしませんので、生演奏を愉しむことをお奨めします。
楽劇「サロメ」より2つのヴェールの踊り
私自身ヨハンシュトラウスという人物は未だ良く知らずに居る。本来音楽史は苦手なのだが、シュトラウス年代は特に理解していない。だが、楽曲は非常に好みであり、その芸術性・管弦楽的手法・ストーリー性に非常に強い共感を得ている。
この楽曲は非常に技巧的なパッセージが多く、ドラマチックに場面が展開される。2枚のヴェールを着飾ったサロメが自然や観衆を飲み込み、時間をも超越して踊り上げるその空間音楽的表現能力は、奏者のイメージと作者のイメージが多次元的に絡み合い、聞き手はその題材を受け取ることで更なる多重性を創造できる。とても聞き手を育てる楽曲だと感じる。

指揮者の立場としては、非常に多彩な音色を求めることが出来、そのために構成を纏め上げることが非常に困難な楽曲である。各楽器群の構成によって、その引き出される音色調整が非常に難しいのである。デュナーミクもさることながら、アゴーギグの設定がが本当に難しい。よもすれば、「ただ早い踊り」になってしまい、または「非常に重たい楽曲」にもなってしまう。
当然G.P.の扱いやフェルマータの扱いには最新の注意を払わなくてはならないが、コーダにある回帰部分(弦楽器の弱音トレモロの上にFl.・Picc.のソロが奏される部分)への導入はデュナーミクは最大値に達しているため、そのスピード感が失われてはたまらない。指揮者はここで「低速のスピード感・緊張感」をどう表現するかという命題に悩む。

他の楽曲でも度々出現するこの「低速のスピード感・緊張感」という扱いだが、私のキーワードは「隠し味」である。
例えば、前出のサロメであれば、この部分では弦楽器とFl.Picc.しか奏していないが、その他のプレイヤーの表情で表現する事を試みている。
他の例では、「SottoVoce」など、無音の音楽に近いものである場合、その舞台照明や指揮法・奏者の動きや緊張感などで表現する場合が多く、音源にした場合もこの雰囲気は継続できる。
こうした「音から離れた音楽表現」に関しては賛否両論あるだろうが、私の中では「音楽=人間哲学」と感じているので、この手法は私の中では今後も多用していくだろうと思います。

さておき、そうした多種多様な表現能力が問われるこの楽曲は、私の中でも強く関心がある楽曲で、今後は楽曲研究と共に作曲研究にも触手が伸びそうである。


楽曲評価:★★★★★
音源評価:★★★★

参考音源:フェルベルト・フォン・カヤラン指揮 ベルリンフィルハーモニー管弦楽団
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